念
甘い匂い。
クラヤミ廊下を、来たままに戻るとドアにぶつかった。
寒くもないのにまるで冬の日のように冷たい金属のノブを捻りドアを開けようとしたが、鍵がかかっているようでドアは開かない。思えば、ここに来た時俺達は鍵をかけ直していなかった。誰かが、俺達のあとにこのドアの前にきて、鍵をかけ直したのだろう。そういえば、こっちにも鍵穴があり、現に鍵がかかっていたが、反対側でドアの開閉を阻んでいたのは南京錠だった。
(考えても意味ないか……)
ここは異形の見世物小屋。俺の持ってる常識なんかなんの役にも立たない。
考えるのを諦めて、暗い中手探りでドアノブ付近にあるだろう鍵穴を探し、鍵を差す。
鍵が開いた音がした時、隣の青がそっと息をついた。
もしかしたら南京錠が反対側にかかっているかもしれないし、扉の先がどこにつながっているかまだわからないのに、脳天気なやつだ。
すっかり弛緩した青とは逆に緊張しながらドアを開けると、そこは来た時に通ったあの鍵箱の奥の空間で、床に俺が投げたままの南京錠を見た時俺はやっとホッとすることが出来た。
どうやらクラヤミは俺が思っていたような異空間ではないらしい。ちゃんと道があり、決まったところにたどり着くことが出来る。
少しだけ考えて、南京錠は外したままにした。この部屋には俺しか入れないのだし、今は元団長から鍵を渡されているという免罪符がある。
クチナワのことが気になったが、あまり考えないようにした。
青を頭の上に乗せたまま鍵箱を出る。
部屋全体にいつもの殺伐とした雰囲気が広がっていた。箱はしんとしていたが、ここは耳を澄ませばナニモノかの唸り声や悲鳴、ナニかをすりつぶす音など、色々な音が聞こえてくる。人の唸り声も嫌なものだが、異形の創りだす全ての音が不気味に感じてしまう。
「何時に来ればいい?」
鍵小屋から出たところで青が訊いてくる。それに、歩きながら答える。行き先は居住区にある俺の部屋。5時半まで色掃除をして、6時くらいにやっと寝たのに9時にこいつに起こされたのだ。眠いし疲れた。
「5時。こっちの掃除が終わったら行く」
「5時って、たった1時間半でやってんの? 楽な仕事だねえ」
「楽でもねえし仕事でもねえよ。見返り一切ねえもん。強制労働って言うんだよ、こんなの」
ちらりと視界の隅に黒ずみが目に入り、箱に目をやると覗き窓から色の悪い液体が溢れだしていた。漂ってきた血の匂いに無意識に眉根が寄る。
本当に、散々だ。あれを綺麗にするのは俺。外の壁なんてモップでこすり雑巾で水分を拭き取るくらいなのに、あんなに汚れたら本格的に洗わなければならない。
どんなに大変でも報酬はない。金なんかもらっても使いようはないが、なんの見返りもないのが癪だ。しかも、報酬どころか雇い主に嫌われたら死ぬ。考えて、驚いた。今までこんなふうに考えてみたことがなかったが、理不尽すぎやしねえか。
報酬はいらないから命の危険もいらない。異形にはケンカを売ることもあるからそれは自業自得だとして、雇い主――クチナワに殺されるかもしれないと怯えて過ごすのはもう嫌だ。ずっと真面目に働いてるんだから、もうちょっと優しくしてくれても良いのに。居住区の入り口で青が俺の頭から下り、人間の姿になった。彼の顔は腹立たしいことに晴れやかで、照明も雰囲気も暗いこの場所には不釣り合いなほど無邪気な子供っぽい表情で笑っていた。
「なんだかんだ言ってなんか楽しかった。じゃあ俺休憩してくる!」
笑ったままの青が手を振り、居住区の向こうへと走り去った。
走り去る青を見送りひとりに戻って感じるのは、色小屋という空間だ。甘い匂いと、耳を澄まさなくても聞こえてくる何かの唸り声。地を這うような低い声に何かが潰れる音。異形と死のための閉鎖空間――こんな寒いキャッチフレーズが頭に浮かんだ。
青が駆けた道を、歩いて辿る。色小屋と箱。クチナワと久納。柊と凌平。光と影というありきたりな対比が頭に浮かぶ。お祭りのような、うさんくさいけれど、どこか明るいイメージの箱や久納。一方で、救いのない夢のような影――色小屋。
そういえば、箱には夢ちゃんの兄貴がいるんだったか。
まだ生きているかはわからないが、妹想いの優しいやつだった。ふたり一緒に見世物になることに決めた火野兄弟とは異なり、彼は自分一人でいつ死んでもおかしくない危険な見世物になった。夢ちゃんも、初めは元団長の下で掃除をしていたっけ。
俺はまともな頃の夢ちゃんは見かけたことしか無いが、今とは別人のようだった。別人といえば、久納もそうか。
昔からかれは派手で美しく、光のような存在だったが、昔は稲様だけが人間贔屓で、久納やクチナワなどの異形は人が嫌いだった。嫌い、というよりも、彼らにとって人間はどうでもいい存在。しかし、稲様が灯ら人間に肩入れするようになってから元団長は人間嫌いになったようだった。
(そういや、俺、何年いるっけ……)
昔のことが、どれも遥か遠くの記憶のように感じられる。箱と色がここまで明確にわかれておらず、少年や少女がたくさんいて、今とは違う賑いを見せていたのは、しかしそれほど遠くのことではない。
2年位は経つか。
俺が来て間もなく、灯は死に色小屋ができた。少しの間のことなのにこれほど懐かしく思い出すのは、あの頃の活気が好きだったからかもしれない。
人間が減り、掃除をするだけの今がひどく虚しいものに感じられた。
随分とゆっくり歩いた。のろのろと自室を目指す。あと少しで付くという時、ふと、背中に悪寒が走った。
「考え事か?」
背後から突き刺さるような声がし、おそるおそる振り向く。
薄闇の中に、皮肉げな笑みを浮かべているクチナワがいた。俺と同じ黒い髪、銀フレームのメガネ。喪服のようなスーツ。他の人に見せる穏やかな笑みは消え、彼の口元は皮肉げに吊り上がっていた。
「箱に行ってみてどうだ?」
嘲笑を含んだ声でクチナワが問う。問われたのに、早く答えなければいけないのに頭が真っ白になる。何か答えなきゃ、と焦るが、なんとか気持ちを落ち着けて、口を開く前に十分に思考しろと自分に命じた。
そうだ、適当に答えちゃダメだ。ちゃんと考えて答えなければ。安易に答えてそれがもし不正解にだったら命の保証はない。
汗がこめかみに浮かぶ感覚。
掃除だから面倒くさい、広い、久納がいた、甘い匂いがしなかった、色々な答えを瞬時に考えクチナワの反応を予測していく。
「……怖かったよ」
「怖い?」
心臓が早鐘を打っている。
「俺、あんたが俺を箱に行かせたくないっての知ってるから、行ったら機嫌悪くなるんじゃねえかって思って、怖かった」
は、とクチナワが短く笑う。まだ、これが正解なのかはわからない。慎重にクチナワの様子を確認する。
彼の口元には笑みが浮かんでいるが、目はまだ俺を見定めるように冷たいままだ。俺が嘘を言っていないか調べているのだろう。
俺は、クチナワには真偽がわかる力があると思うことがある。今までだって、本当のような嘘を吐いて殺された奴もいたし、逆に嘘のような本当のことを言って許された奴もいる。クチナワに嘘は通用しない。そして、嘘を吐けば殺される。
俺は、嘘を吐いていない。怖かったのも本当だし、その理由だって真実だ。
「団長が決めたことだ。俺に止める権利はない。その点は安心しろ」
わずかにクチナワの目が柔らかくなる。二年間顔色を伺って過ごしていれば、一応危険な時と安全な時の見極めが付くようになった。いつ俺が地雷を踏んで安全が危険に変わるかはわからないが、さっきの俺の答えは不正解ではなかったようだ。
こらえきれず安堵の溜息が漏れる。
「だが」
クチナワが一歩ずつゆっくりと俺に近づいてくる。やがて、彼の左頬にある蛇模様の痣が、暗がりの中でもはっきり見える位置にまで近くなった。
先ほどまでの危険な空気はないが、それでも胸の軋みはとれていない。クチナワから言葉を落とされる時、見下ろされる時、組み敷かれている時でさえ、俺はいつも恐怖と不安を感じている。
「お前は色の住人だ。これを忘れるな」
冷たい目とは裏腹に、クチナワはまるで睦言をささやくように言った。
「わかってる」
人間は、ほとんどいなくなってしまった。みんな、死ぬかイギョウになって小さい箱の中に閉じ込められている。だから、今俺がいなくなったら色小屋を掃除するやつがいなくなってしまう。人間さえいれば、俺はお役御免、こいつがこうやって俺に念押しする必要はないのだ。
「……あんたが俺を色の掃除夫って言ってる間は、俺は逃げようとしない」
なぜ口に出したかは自分でも不思議だった。だけど、俺は恐怖を押し込めて、クチナワの目をしっかりと見て言った。
クチナワがわずかに目を見開いて見返してくる。
今更自分の言った言葉が身の程知らずの戯言に感じられて、恥ずかしくなり目をそらす。
「そもそも、逃げようったって出来ねえけど」
話は終わったはずだ。そう思い、クチナワに背を向けた時、腕を掴まれた。怒らせたかとおそるおそる振り向くと、クチナワは苦虫を噛み潰したような表情で俺を見ていた。いつもの無表情や、他の奴らに見せる作り物の氷のような笑顔とは違う、人間の顔だ。
とてつもなく、珍しい表情。予想外のことに胸がざわついたが、恐怖ではない。戸惑いとか、驚きとか、そういうたぐいのもの。
「お前は、いつも殺されるとビビったような顔で俺を見るが、俺がお前を殺そうとしたことがあるか?」
いつもより少しだけ早口でクチナワは言った。
クチナワの言葉に驚き一瞬思考が止まるが、確かこいつは俺を何十匹もの蛇に襲わせたり、毒蛇に噛ませたりしたことがなかったか。殺されそうになったことは何度もある気がしたが、まさかこいつの中ではあれはただのお仕置なのだろうか。
「ないだろう。雑だが、お前の掃除は気に入っている。やることをやっている限り殺しはしないから安心しろ」
もう行け、と言い放ちクチナワは俺に背を向け闇に消えた。
もやもやとしたものが俺の体の中に入り込み、侵食していく。
怖いのは変わらない。
クチナワは、すぐに蛇を使ってくるし、どんなときも俺を物のように都合よく扱う。だから、不要になったり、怒らせたらすぐに殺されるものだと思っていた。
もしかしたらそうなのかもしれない。だけど、クチナワがあんな人間らしい顔で、人間らしい言葉を俺にくれるとは思わなかった。
「……戻ろ」
深く考えてしまう前に、さっさと部屋に戻ることにした。
なんだか、疲れている。
今ならば、きっとすぐに、深く眠れるだろう。