早寝記録

傀儡

 部屋に戻った俺は、着替えもせず布団を引っ張り出しそこに倒れ込んだ。疲労と後悔で体も頭もひどく重いが、目をつぶって意識を手放そうとしたって目は冴えたまま眠れそうもない。けれど、体を起こして何かをしているよりも黙って横たわっていた方が確実に眠れるから俺は布団から出ることができなかった。まるで何かから逃げるように目を閉じ続ける。
 ふと、気配を感じた。
 おそるおそる布団から顔を出し、目を開ける。その瞬間絶望した。
 黒い髪、黒い喪服、銀縁のめがね。
「早いな、御国」
 穏やかにクチナワが言う。心臓が早鐘を打ちすぎて止まってしまいそうだった。
「早くない。もう、掃除終わって大分経ってる」
 なんとか声を絞り出す。ここにいる自分の声なのにどこか遠くに聞こえた。
「ああ。いや、その後また箱に行っただろう。早いな」
 含みがあるようにクチナワが言った言葉に息が止まる。やっぱりクチナワは気付いているのだ。なんらかの力で俺の動向を知ることができる。
 果たしてこいつは俺の行動をどこまで把握しているのだろう。布団に入っているわけにもいかず、抜け出しながら何を言うか考えるが何も出てこない。怖い。見世物になりたくない。
 だけど、仕方ない。クチナワが俺の行動全てを知っているわけでなくても、俺はクチナワを怒らせるようなことをしたのだ。それは変わらない。

 ――雑だが、お前の掃除は気に入っている。やることをやっている限り殺しはしないから安心しろ。

 人間らしい表情でこう言ったクチナワを俺は裏切ったのだろうか。そう思った途端後悔がにじむ。
 凌平の顔が浮かんだ。どうして会ったばかりのやつに手を貸すのか自分でもわからない。気持ちはいつも凌平よりもクチナワの方にある。ほぼ初対面のやつよりもクチナワの恐怖の方がもちろん勝っている。
 だけど、そのときはそうするしかなかったのだ。俺は自分じゃないだれかに動かされている――こう思わないと辻褄が合わない。自分じゃない誰かに動かされているなんて今更こんな責任逃れな考え誰にも通用しないことはわかっているが、それでも事実だと思えた。
 だが、こんなばかげた言い訳、今クチナワに言うつもりは毛頭ない。
「やっぱ、怒ってる?」
 聞いてみる。部屋の入り口に立ったままのクチナワを見上げて言うと、クチナワが俺を見下ろして微笑んだ。
「気分は良くないな」
 クチナワの調子に戸惑う。襲われるか殺されるか見世物になるかだと思っていたのに、意外にもクチナワは笑みを崩さない。人をいたぶるときにも笑っているような奴だが、嗜虐的な笑みには見えなかった。それが逆に怖く背中に嫌な汗が伝う。
「……な、なんで来たの」
 いつも、クチナワに対しては小さなガキみたいな口の聞き方しかできず恥ずかしかったが、ここにはからかってくる異形や青はいない。
「気まぐれだ。……安心しろ。俺は凌平には手を出せない」
 凌平に出せなかったとしても俺には出せるじゃねえか、と思ったが、なぜか俺は安心した。凌平が無事ならまあいいかと思ったのだ。
 瞬間、思考にうっすらと靄がかかる感覚がする。再三言うが、凌平には縁もゆかりもない。なんで自分が凌平のことを気にかけるか意味がわからない。柊にしてもそうだ。凌平が無事だということを知らせてやろうなんて、なんで思ったんだか。
 自分の言動どころか思考までもが望まない方向に行っていて、ゆるやかに、しかし確実に俺が死んでいっている気がする。自我の死が迫っているのか。俺はこのままだと柊と凌平を大切に思っており、そのためならどんな自己犠牲も厭わない「キャラクター」になってしまうだろう。肉体的に死なないにせよ、それは明らかに死と呼べるものだ。だって、今の俺がいなくなるのだから。
「御国」
 そんなことを考えている間にクチナワが俺の間近に迫ってきているのに俺は気付かなかった。距離は大体二歩分くらい。クチナワがさらに一歩踏み出した。目の先にクチナワのつま先が見える。おそるおそる顔を上げると、やはりクチナワは俺を見下ろしたまま笑っていて怖かった。怒った顔をされたほうが余程良い。俺は悪いことをしたのに怒られないのが怖い。
「は、箱にはもう行かない。凌平が起きたんだ」
「そうだな。おまえはもう用なしだ。だが、団長が終了と言うまでは終わりじゃない」
 クチナワが俺のそばでしゃがみ、長くまっすぐな指で俺の顎をすくう。至近距離で目が合った。身長はあるが、意外と女顔だ。このことを俺はよく知っている。
「なんで、怒んないの……」
「怒られたいのか?」
 クチナワがバカにしたように鼻で笑う。優しく穏やかな顔が一瞬崩れ、それに安心した。
「馬鹿な奴だ」
 クチナワはこうつぶやくと、近かった顔をさらに俺に近づけ、そのまま口付けて来た。口付けが深くなるにつれて、段々とこわばっていた体からも力が抜け、俺はいつの間にか頑なに開けていた目も閉じていた。そして餌をねだる鳥の子供みたいに自ら口を開く。頭の靄が厚くなっていく。低い汽笛のような耳鳴りがしている。
「自殺願望でもあるのか」
 顔を離し、クチナワが言った。ぼんやりとした世界の音は意味を持った声として認識できず、俺はただ目を開けて焦点をクチナワに合わせた。
「俺を怒らせるようなことばかりして、お前は死にたいのか」
 作業服を脱がせられながら、問われたことをぼんやりする頭で考える。
「……死んだら、俺はどうなんの?」
 なんとなくクチナワの意図に反する答えだとはわかっていたが、今俺は恐怖を正常に受け入れられていないようだった。
 俺はおかしくなったのだ。
「死んだら、俺はいなくなる? よく、わかんねえよ」
「そうだな……」
 クチナワが何かを言った。
 だけど、クチナワの手が半分だけ脱がされた作業服の隙間から中に入ってきた途端に、俺は睡眠薬を飲まされたように、もしくは麻薬を打たれたかのように俺の意識は遠く離れていった。
 行かないでくれ、と思ったが、もしかしたら正常な意識も思考も、いなくなったまんま帰って来ないほうが幸せかもしれない。