軌条
許された。
この事実は俺に戸惑いを与えた。だって、考えても考えても俺が許されるはずがなかった。
クチナワは久納や稲様のことを蛇蝎の如く嫌っているのだ。俺は彼らの寵児とも言うべき凌平と柊を再会させた。柊を色に閉じ込めたのはクチナワなのに。
(もう、絶対に協力なんかしねえ)
冷静になった頭で考える。クチナワが部屋からいなくなって一眠りして起きたら俺はまともになっていた。戻ったのが幸か不幸かは分からないがとにかく良かった。
そうして改めて考えるがやはり俺は我が身が可愛い。よく知らない他人のために身を削るとか、気が狂っているとしか思えない。
柊のために凌平に会いに行ったり、初対面に近い凌平の願いを危険を冒してまで受け入れたり、ここ数日の俺は頭がおかしすぎる。
もう、絶対に絶対に協力なんかしない。俺はクチナワの下で色の異形たちに少し狙われながら平和な毎日を過ごしていくんだ。全然平和じゃない気がしたが、柊と凌平に関わるよりは余程マシだ。
凌平と会うとおかしくなるだろうことは予測がついている。ということは、凌平に会わなければ俺はこのままでいられるということだ。
覚悟を決めて柊の箱の前に立つ。無意識に握りしめていたモップを床に置いたバケツの中に入れ、手にした鍵束から箱の鍵を選別し鍵を開ける。その時に柊の手枷すら開けられる小さな鍵が目に入り舌打ちをする。
昨日の俺だったら凌平や柊に頼まれたらうっかり枷を外してしまうかもしれないが、それは昨日の俺だ。今日は凌平にも会っていないし、大丈夫。
それでも俺は一度深呼吸をして心を落ち着かせてから柊の箱の中へと入った。
柊は面を外していた。しかし、彼の放心した表情からは面を外そうと思って外したようには思えなかった。きっと凌平が来てからずっとそのままなのだろう。ぎゅっと心臓が掴まれた感覚に陥ったが、意識的に同情は捨てる。
彼は俺が入ってきたことに気が付きわずかに顔を上げた。
「御国……」
覇気のない声。俺は何も言わず水を張ったバケツを箱の隅に置き、モップを浸けた。そして掃除を始める。
でも、俺は挨拶をしないことが多いからここまではいつもどおりだ。次に何か言われたら無視しよう。
無視することでこれからの拒絶を表そうと思ったが、柊はいつもならば俺が掃除しているところを見ながらひとりでしゃべるのに、今日は喋ろうとしない。
彼が昨日凌平に会って傷ついたにせよ絶望したにせよ、てっきり会わせてくれてありがとうと礼くらいは言われると思っていた。
ちらりと顔を盗み見ると彼はひどく疲れたようだったが、それでも曖昧な笑みを浮かべている。疲れてるんなら、面白くないのなら笑わなければ良いのに、彼は笑っていないと死ぬ病にでもかかっているのだろうか。
だが、柊が話しかけてこないのであればその方が好都合だ。俺はクチナワを裏切れない。あいつのことは嫌いだが、結局の所俺の主はあいつだけだ。
現在久納が治めている箱は良いところだ。掃除をしていて身の危険を感じないし、雅などかつての顔なじみもいる。
だけど、弱い俺がクチナワから離れられるわけがない。
多分、箱への扉に仕掛けられた蛇という枷がなくても俺はクチナワの掃除夫でい続けるだろう。理由はひとつ、クチナワが怖いから。だからいつまでも従順な犬のように振るまい続ける。
昨日までのは凌平の何か見えない力に当てられたからか、単なる気の迷い。人間だったころのなごりかもしれない。イギョウになった覚えはないから俺は自分の体は人間だと思っているが、心はもう人間なんかじゃない。狂ったり殺されたりしていく仲間たちをクチナワ側からずっと見てきたのだ。そんな風にやってきた俺はきっと普通の人間の感覚からは離れてしまった。我が身が一番可愛くて、他はどうでもいい。
「……御国」
そろそろ掃除も終盤になった頃、雑巾を片手に床に這いつくばっている俺に柊が声を掛けた。もちろん返事はしない。無視をすると決めたのだ。沈黙が流れる。でも、これで良いんだ。俺はもう他人。もう協力なんてしないのだから変に慣れ合いたくはない。
「御国って、実は優しいよね」
「それはない」
あまりにも突拍子もない発言にうっかり反論してしまった。
「昨日の言ってんなら忘れろ。気の迷いだ。もう手を貸さない」
はっきり言うと、柊がおかしそうに笑い声を上げた。彼は笑っても困っても、悲しんでいる時でさえ変わらず穏やかな雰囲気に包まれている。
「昨日のもそうだけど、それ抜きにしてもさ。御国、いろんな感情が顔に出てるよ。話が途切れる時いつも不安そうだし、会話が始まったらちょっと安心した顔してる。人間はみんな俺のこと嫌いなのに、初めから普通に接してくれた」
「思い込み。無言になったって全然不安じゃねえし、普通に接してもいねえよ。お前なんかどうでも良かっただけ」
「そう? 間違ってたんならごめんだけど、もしかしたら俺みたいに思ってる奴がいるかもよ。お前は甘いって。少し、気をつけたほうが良い」
「ご忠告どうも」
「……ほんと、何偉そうにって感じだけど。ごめん」
そう言ってへらりと柊が笑った。冗談めかした感じだが、今のは本心だろう。
そんなことを考えていると、珍しく口元の笑みが消えた。笑わなければいいのにと思ったが、笑みをなくした柊はなんだか変に見えた。
「ひとつ、お願いがあるんだ」
神妙な面持ち。いつになく真面目な雰囲気に、ざわざわと胸に嫌な予感が生まれる。
「嫌だったら、出来ないと思ったら断って」
「嫌だ、断る」
嫌な予感がして、思わず即答すると、柊が苦笑した。
「そっか」
「……おちょくっただけだよ。言ってみろよ。やるかもしんねーし」
ありがとう、と柊が聞こえるか聞こえないかの小声で言い、かたわらに置いていた狐面を俺の顔に付けてきた。逃げることはできたが、こんな時にまさかふざけないだろうと、そのまま面を受け入れる。
(ていうかさあ、まじで俺――)
本当に意味がわからない。もう協力しないと決意したばかりなのに、俺何言ってんの。
繰り抜かれた目の奥に柊がいる。距離は変わっていないのに、柊が小さく見えた。
おかしな感覚だった。面を付けたのが初めてということもあるのか、視界が狭まったからか、現実から遠ざかった心地がする。手に持っているはずの雑巾の感触も無い。
そして気がついたことだが、面は紐で俺の顔に張り付いているのではなかった。柊が手を離しても、面は面自身の意思で俺の顔にくっついている。
ふと、頭の中に柊の声が直に入り込んできた。これも、面の力なのだろう。
「……凌平に、稲様を持っててって伝えてほしい。クラヤミ6号の薬箱に入ってるからって」
柊の言葉に俺は止まるしかなかった。
このフレーズだけで柊が何をしたいのかわかってしまったのだ。
柊は、稲様を復活させたいのだ。稲様は元団長とクチナワによって小さな筒に閉じ込められ、生きてはいるが、自我はもうないのだと聞いたことがある。
異形は弱ると人型を保てなくなる。青がそうだ。前にとばっちりを受けて死にかけた時、ずっと蛙姿のまま俺の部屋で呻っていた。
力が弱くなっているのなら、凌平が触れば復活するのではないかとこいつは思っているのだろう。
柊は凌平の力に気付いている。じゃなきゃ、持っててなんて言わない。
できない、と言おうとした。
できないと言うべきなんだ。
(なんで断れねえんだ)
口を開いて断ろうとするのに、できないの4文字が出てこない。また何か不思議な力で声を壊されているようだった。狐面のせいではない。
この自分が自分でなくなるような、何者かに操られているような感覚はここ数日の俺に付き纏っているはた迷惑なものだ。
(断わんねえのかよ、俺は……)
呆れたように思うが、この感覚に陥ってしまったらもう断れないことはわかっている。
それでも、俺はどうなるのだろうと諦めの混じった頭でなんとなしに考えた。
稲様が復活しようがしまいがどうでも良いが、少しでも稲様の復活に加担したことがクチナワにばれたら俺はきっと今度こそ見世物にされて殺される。気が狂うほど辱められてじわじわとなぶり殺しにされるのだ。
「本当に、伝えるだけでいいから……」
俺の無言を肯定と取ったのか、柊が続けた。
「嫌だったらしなくて良いから」
俺はまっすぐに見てくる柊に向けて意思とは正反対のことを話していた。
「伝えるだけなら簡単だ」
狐面を通して柊の感情が伝わってくる。あたたかい、きらきらしたものが飛んできた気がした。しかしすぐにどんよりした雨雲のようなものが伝わってくる。
「本当に危ないと思ったらしないでほしい。俺、御国を良いように使ってるんだよ。稲様を助けるために、お前を危険に晒そうとしてる。クチナワがどんなやつか知っててお前に頼ってるんだ」
俺だって断りたいよ、と心の中で言った。しかしやはり「できない」の一言は声に出なかった。
「……でもさあ、俺がクチナワにお前が言ったことちくるとかそういうの考えてねーの?」
だから少しだけやつ当たる。見世物小屋は茶番小屋。どうせ俺が何を思ったって何者かの手のひらの上で踊らされる運命なのだ。そう思って諦める。
だけど、協力してしまうだろうが、せめて伝言を伝えるだけの協力で終わりたい。そして、伝えた後は金輪際こいつらに関わらずにクチナワの下で虐げられつつ掃除だけをして過ごしたい。
柊は俺の意地悪な言葉を聞いて、俺の面を外した。
「別に良いよ。それならそれでかまわない。なんかさ、ちょっと疲れたんだ」
そう言ってはは、と気のない笑みをこぼす柊は、本当に疲れているように見えた。
「ねえ、御国」
「なんだよ」
「……凌平と会わせてくれて、ありがとう」