疲労
突然目が覚めた。
この表現がぴったりだと思う。突然目が覚めて認識したのは蝋燭の灯。枕元でゆらゆらと揺れていた。見ると、畳の上に親指くらいの太さの蝋燭がろうそく立ての上で燃えていた。顔と近いはずなのにむき出しの炎からは熱さを感じず、俺は布団に横になりながらぼんやりとその火を眺めていた。
何も感じていなかった。今から思えば俺は目が覚めるまでのことを何一つ覚えていなかったのだから、ある意味では真っ白な状態だったのだ。
そのうちに喪服を着た優しげな風貌の男が入って来て、俺の名前を教えてくれた。俺には本当に何もなかった。
それから数年、今俺にあるのは俺の名前を教えてくれた者に対する恐怖と罪悪感だ。
午前5時。もう朝と言うべき時間帯に俺は真っ暗闇を歩いていた。いつもと同じクラヤミだが、気が重いせいか完全なる黒に思えた。そのくせ行くべき道は見えているのだ。暗闇が広がっているが、進むべき道はわかっている。
しかし蛇にでも巻きつかれているかのように足は重く進みが遅い。行きたくないからだと思うがなんとなく気味が悪かった。
頭の中で凌平に言う言葉を考えながらのろのろと進む。凌平の傍に青がいたら暗闇廊下にぶん投げれば良い。久納がいたら――
いいや、やめだ。久納がいたらもう凌平が起きたから箱の掃除はしなくていいはずだと告げて、箱掃除から下ろしてもらおう。そうしてクチナワのいる色小屋で命の危険に晒されながら穏やかな日々を過ごすのだ。あんまり異形も踏みつぶさずに恨みを買わないようにして生きていこう。
久納がいなければ、ちょっとこわいけどクチナワに凌平が起きたことをばらしてしまおう。クチナワは久納か団長にそれを言うだろうから、そしたら俺は色小屋の掃除夫に戻れる。
久納がいますようにと願いながら徐々に凌平がいる久納の部屋に近づいていき、ふと足を止めた。凌平の元に向かおうとしていたが、今は午前5時。箱掃除のために青と待ち合わせている時間じゃないか。
それでも俺は進んだ。行き先は久納の部屋だ。なぜかはわからない。でも、行かなければならないと思ったのだ。きっと誰かが望んでいる。所詮俺はそいつの傀儡にすぎない。
久納の部屋のドアの前、ノックもせずにドアをくぐるとガラクタの中で体を丸めて凌平が眠っていた。彼の顔のすぐそばに面が落ちている。俺でも知っている般若の面だ。
眠っている凌平に近づき、恐る恐る肩に触れる。
「凌平」
肩に置いた手を頬に近づけ、1、2回弱く叩くとなぜかどうしようもない寂しさに襲われた。
「凌平、起きろって」
刺激を感じたのか、凌平の睫毛がわずかに揺れ、ゆっくりと目が開かれた。
「御国……」
「柊からの伝言聞いてくれ」
「……伝言?」
「ああ。稲様を持っとけって言われてきた。クラヤミ6号のいつもの場所にあるってよ。伝えたぞ。で、お前が起きたから俺はもう用済みだ。もう会うことはねえだろう。それじゃあな」
手短に言ってガラクタの中踵を返す。
「ちょ、ちょっと、待ってよ」
「は?」
引き止められ、そのまま行けばいいのに俺は振り返った。凌平が困った顔をして俺を見上げている。
「伝言はわかったんだけど、おれ、出られねえんだよ。久納に色小屋に行ったのがバレて、部屋から出ようとすると見えない壁みたいのにぶち当たるんだ」
「……はあ?」
「このお面が俺を監視してんの。久納の代わりに」
「んなの知った事か。俺は伝言を頼まれただけだ」
「……そうだよね」
ごめん、と凌平が殊勝に謝る。
「出られねえってさ、箱掃除はどうすんの」
「それは久納は何も言ってなかったよ。帰ってきてまたすぐに元団長と行ったんだ」
「ふうん。そんなに何してんだか」
「なんか新規開拓がどうとかって行ってたけど……。クチナワも別行動で探してるって言うし、上がいないから中級の異形がそわそわしてて、気をつけたほうが良いよ」
「そうかよ。ご忠告どうも」
クチナワは忙しいのかもしれない。もしかしたらだが、だから俺は許されたのか。時間が無いから許されたのだ。きっと、そう。もしクチナワがいないのだったらこいつの代わりに――。
いや、だめだ。わざわざ自分から危険に突っ込んで行ってどうする。伝言だけで終わらせるってさっき決めたじゃねえか。もう箱に来ないとも決めた。
「俺、御国には頼んねえ」
こんなことを考えていたらふいに凌平が呟いた。つぶやきだったがしっかりとした口調にはっとする。
「ごめん。なんか、考えてみたらおれお前に頼んでばっかだ。しかも都合のいいことばっか」
「そうだな。反省しろ」
「反省するわ」
謝られてきまりが悪くわざと憎たらしく言うと凌平が笑った。人間がよく見せる苦笑というやつだ。
「……今がチャンスだな」
「え?」
「凌平、お前は柊が何したいかわかってんの?」
俺の質問に凌平は一瞬虚を突かれたようにぽかんとした後、真剣な顔になり頷いた。
「多分。柊は稲様を元に戻そうとしてるんだと思う」
「そうだな。ってことは、お前も自分の力わかってんのか?」
「力? 忘れっぽくなったこと?」
「ばか、違うよ。……まあいいや。あいつは自分の代わりに稲様を復活させて欲しいんだろうな」
「……ああ」
そういう凌平の顔は沈んでいる。真剣といったほうがいいのだろうか。なんでもいい。
「けど、お前は今なら柊を助けられると思ってるんじゃねえか?」
「……さっき、一瞬思ったけど」
「やっぱり?」
「稲様を元に戻したら、クチナワや元団長がいない今だったら柊を助けられるんじゃないかって思った」
「お前の忘れっぽくなる能力でそれができんのか?」
あえて聞く。
「……一度、柊がいない時稲様の筒を出したことがあるんだ。その時、人型の稲様が出てきた。すごくまともに見えたよ。もっと長く持ったら、完全に元に戻るかもしれない。これはずっと思ってた」
「そうか」
なるほど。一応柊も根拠があって俺にあんな伝言を頼んだのだ。あいつは稲様が復活したら助かると思ったのか。いや、違う。きっともう出られないと思ったから稲様を自由にさせたかったんだ。あいつは人間の中でも特に甘い思考を持っていたからきっとあたっている。
「ま、せいぜい頑張れ。下から応援してる」
「うん。……御国」
ドアまで行ったところでまた引き止められる。振り返ってみると、凌平がまっすぐに俺を見つめていた。いつのまにか彼は立っていた。
「なあ、もう会えねえの?」
「会えねえんじゃなくて会わねえんだよ。俺は箱掃除がお役御免になったらこっちには来れねえし、お前は色にくるべきじゃねえ。柊を助けに来るんなら俺には近寄るな。仲間だと思われたら俺が困るからな」
じゃあ、と言って部屋から出た。
俺は凌平に柊の伝言をちゃんと伝えた。稲様を持ってろってこと、クラヤミ6号にあるってこと。凌平が面に見張られてて部屋から出られなくても、その結果稲様が凌平の手に渡らなくても、ひいては柊が一生檻の中だったとしても俺には関係ない。第一俺はクラヤミ6号の場所さえわからないのだ。もしまた頭がおかしくなって助けてやろうなんて思ってしまったとしても大丈夫だ。
「……だる」
ふと強烈な怠さを覚えその場に止まり息を整える。多分、精神的なものだろう。昨日クチナワが部屋に来たが、あれは割といつものことだから別にこんなに疲れるようなものじゃない。
クチナワに対してか凌平に対して覚えたものかはわからない。俺は何かに抱いた未練のようなものを断ち切るべく、重い体を奮い立たせいつもより早足で青の元へ向かった。昨日箱にぶん投げられた青が来るかどうかは知らないが。