うじうじくよくよ
こんなに早くこの暗闇を見られるとは思ってなかったな……と冷めた気持ちで闇のような廊下を進む。真っ暗で、景色は黒一色だがなぜか俺には、いや、ここの住人にはあたりが見える。
おかしな世界に最初は戸惑ったが、もうすっかり慣れてしまった。
ぺたぺたというなんだか可愛らしい足音を聞きながら、ある部屋を目指す。
凌平はクラヤミ6号ではなく、久納の部屋にいるはずだ。彼は箱の中にいる俺に向かって必ず助けに来ると言ってくれた。俺にはそんな資格なかったし望んでいなかったが、純粋に嬉しかった。きっと俺は人として最低なのだ。もう人ではないが、この汚い考えは人間特有のものだと思えた。
自分さえ良ければいい。俺のせいで死んだり不幸になった人は大勢いるのに俺は楽な方へ楽な方へと常に流れていこうとしている。
久納の助けをそのまま受け、凌平が仲良くしてくれて素直に喜び、蔑んで傷めつけて欲しいと願う傍らで人並みに助けを求めている。
後悔はしているが反省はしていないのだろうと思う。
真っ暗な廊下を、真っ黒な気持ちを携えて歩く。そのうちに明るい看板が見えた。この前まではなかったもの。その看板は、ピンク、黄色、緑、紫と代わる代わる色を変えながら存在していた。看板には太字で団長の部屋と書かれている。また悪趣味なものを拾ってきたのか。
看板を横目に見つつ、ドアをノックする。すると、珍しくすぐに返事が来た。俺が苦手にしている人物――久納の声。わずかに緊張が走る。緊張なんてしなくてもいいのに、得体の知れない久納と会うのはいつなんどきでも恐ろしかった。
キィ、と切なげな音を立てて扉が開く。
「あ。柊。出してもらったの?」
ドアの向こうには作り物のように美しい顔を綻ばせた久納がいた。
「御国が出してくれた」
「御国が?」
「うん。俺、許されたらしいよ」
「本当に? クチナワ、悪いものでも食べたのかな?」
ふふふ、と笑いながら久納が俺を部屋の中へと促す。まったく意味のない会話は雲のように漂いもせず、存在すらせずに消えていくようだった。
案内された部屋は、相変わらず汚かった。床には玩具や装飾品の類が散乱しており、足の踏み場はない。現に物置になってしまっている部屋から久納の居住スペースまで行く間に足の裏には何かが刺さったり、また踏んづけたりして足がじんじん痛む。
「そういえば、嬉しい出来事があったんだ」
「嬉しい出来事?」
「そう」
弾けるように言って、久納が訝しがる俺を振り返る。
「君の罪がひとつ消えたよ」
そうしてにっこりと微笑んだ。
意味がわからなかった。
久納は自室への扉の前に立ち止まり、俺をじっと見つめている。
「それとも、また罪を重ねたのかな?」
「……相変わらず、俺には団長の言葉が理解できない」
「人には少々難しいかな? ああ、君は人じゃなかったか」
「イギョウだよ」
「まあ、でも稲見はああ見えてバカだからな。蛙の子は蛙っていうからね」
団長が怪しく笑う。こんなんで、どうして凌平には優しいのだろう。何かきっかけがあったのだろうか。それとも、この鬼の子すら凌平の癒やしの力に魅せられているのか。なんにせよ、あまり気にしないほうが良い。
考えないほうが自分のためにも人のためにも良い。考えるとどうしても自己保身に走ってしまう。罪を認め、悔い改めてもし誰かに許されてしまったら俺のせいで不幸になった奴らはどうなる。反省しないやつは最低だが、反省するともしかしたら許されるかもしれない。その結果自分でも許された気になり、罪が薄れる。
「詳しいことは言わなくて良い。お茶でも飲んで、部屋に戻りなさい。そうしたらもうバカなことはやめるんだ。凌平は俺が見ているし、お前は今までのことを綺麗さっぱり忘れて生きていくんだね」
「凌平はいないの?」
「ああ。今何時だと思ってるんだい? 掃除中だよ」
「……お茶はいらない。俺、部屋に戻るよ」
「そうかい? 良いお茶を仕入れたんだけどな」
久納の目は細められ、口は笑みの形を作っている。口調には揶揄が含まれていたが、こいつがよくわからないのなんていつものことだから特に不思議にも思わなかった。
再び散乱するガラクタたちで足を痛めつけながら俺はきた道を戻る。久納は胡散臭い笑みを浮かべながら、自室へ続くドアの前から動かなかった。
「明日から、また見世物になれば良いの?」
クラヤミ廊下を繋ぐドアの把手に手を掛けて、尋ねる。すぐに答えが帰ってくると思ったが、即答しない久納を変に思い振り返ると、久納が全く考えの読めない作り物のような笑顔を浮かべていた。
「呼び込みだよ」
俺が質問してから彼が答えるまではわずか数秒。しかしそれがとても長く感じた。彼はいつも脳を介さずに適当に話しているみたいだったから。
「呼び込み? 客ってこと?」
「餌」
「は?」
「俺じゃない方の団長からの命令」
「元団長?」
「お前はそう呼んでいるね」
「……餌って何を呼びこむのさ」
嫌な予感がした。嫌な汗が背中を伝う。灯の険しい顔が頭に浮かぶ。久納がすべてを見透かしたように穏やかに言葉を続ける。
「どうやら、人間が一番らしいんだ」
「一番って?」
「栄養。異形を食べてもなんにもならないし、イギョウも落ちる。今まではイギョウになって使い物にならなくなってから井戸に落としていたけれど、もうそれじゃあ足りない」
想像していた文言そのままだった。
「あんたは、無関係じゃなかったの? 人をさらって井戸に落としているのは、元団長とクチナワだけだと思ってたけど。あんたもクチナワの仲間になるの?」
「それは、お前が知るべきことじゃない。俺は俺の考えで動くだけだよ」
ぴしゃりと遮断される。笑顔の裏にこれ以上ない拒絶を感じ、それ以上何も言うことができなかった。
「従わなければ、お前を落とすよ」
久納が美しい仕草で首を傾げる。はらりと頬を滑る金髪は部屋が薄暗いというのに輝いて見えた。
「俺は、」
灯。
灯は、かつて人間たちが色小屋に落とされて陵辱され殺されていく姿を目の当たりにし、それをどうにか食い止めようと藻掻いていた。彼はもうここから出られないということを受け入れていたが、その中でも正しく真っ当に生きようとしたのだ。
同じ人間たちを救おうとした。彼らの意志に反してイギョウになった元人間たちを救おうとした。
人間を誘い井戸に落とす行為は、俺を助けるために死んだ灯に仇なすことにほかならない。
それならば――
「俺を落とせばいいよ。俺はやらない。人間を白蛇様のエサにすることなんて出来ない」
「わかってたみたいだね」
久納が笑う。
「いつからわかっていたのかい?」
「何を?」
「白蛇さまが人やイギョウを食べて生きながらえていること」
「……そんなの」
今はどうでも良い、と言おうとして口を噤む。会話を続ければ、何かが見えるかもしれない。灯が探っていたこの小屋のことが、少しは見えるかも。もし俺が死んであの世で灯と再会出来た時に教えたかった。地獄が存在するのだから、きっと灯もどこかにいるだろう。……尤も、俺が死んだら地獄に堕ちると思うから灯と会えるかは分からないが。
「灯が死んで、稲様がおかしくなった日がきっかけ……だと思うよ」
「へえ? どうして?」
「白蛇様を見た稲様が、一言そうだったのか、ってつぶやいたんだ。その時はよくわからなかったけど、色小屋で見世物になってた時、ずっと考えてた。それで、合ってるかわからないけど、そうじゃないかって」
「当たってたね」
「嬉しくはないけど」
「ねえ、柊」
久納が一歩一歩と俺に近づいてくる。その足取りはゆっくりとしており、ガラクタまみれの中を歩いているとは思えないほど優雅だった。
「お前は人間を誘い、白蛇様の餌を確保するんだ」
「……嫌だ」
すぐ目の前まで来た久納が俺を見下ろす。その目は三日月形に細められているが決して笑ってはいない。
「御国が助けてくれたんじゃないのか」
くすりと笑われた。
「お前を助けることはクチナワに対する裏切りに他ならない。お前はまた、命を賭して助けられたのだ。それなのに呆気無く捨てるというのか」
やけに芝居がかった口調だった。でも、おそらくこっちがこいつの本性。そして、間違ったことは言っていない。
「あいつが勝手に助けたのだと、突っぱねるか?」
「……そんなこと、できない」
「じゃあ、やるしかないな」
「人を殺せって言うのか」
「ああ、そうだ。灯の道にも井戸がある。明日の晩、それを教えてやろう」
どうしたら良いかわからないが、考えても答えは出ない。
灯の思いに従うならば俺は井戸に落ちて死んだほうが良い。
御国の思いに従うならば俺は――
人を井戸に落とすべき?
御国はこんなことを望んでいたのか?
わからない。御国と話すようになってから日が浅いが、あいつは優しいやつだと思う。なぜ危険を冒してまで凌平を連れてきてくれたり俺を出してくれたのかはわからないが、少し話しただけでもあいつの優しさがわかった。
考えても答えはでないだろう。
何をやっても、誰かを裏切るだろう。
「俺、行くよ」
「ああ。柊」
ドアを開けた所で声が掛かる。正直、もう話しかけないで欲しかった。
「何」
「人間も、異形もすべてのものは自分勝手だ」
「それが、なんだよ」
「すべてのものは罪人で、断罪は誰にも出来ない」
クラヤミ廊下に出て、何も返さずに扉を閉める。久納の言うことは間違っている。それなのに、その言葉に縋り付きたい自分がいた。