稲様
そういえば裸足のままだ。久納の部屋に上がる時に脱いだだろうか。それとも、御国が連れ出してくれた時、すでに裸足だったろうか。
(思い出せない……)
久納と話し、ひどく疲れた。今までずっと箱の中で座っていたから体の疲れはないはずなのに、足が錆びついたように軋んでいる気がする。イギョウではなくブリキの玩具になってしまったような徒労感。
(井戸に、人間を落とせって言われた……)
正直な所、俺は死んでも良いと思っている。灯が死んで稲様がおかしくなってからは俺のせいでいなくなった二人のために生きていた。折角救ってもらった命だ。不可抗力で殺されても自ら死ににいくような真似はしないでいようと思っていた。それだけで今まで生きてきた。
凌平が現れてから、彼が一緒にいてくれるのが嬉しくてつい本気で喜んだり笑ったり傷ついたりしてしまったが、本当はそういうことも俺には許されないのだ。
井戸に人を落とす。
これは決定事項だ。二人が救ってくれた命。そして今日自分の危険も顧みず御国が逃してくれて今俺は箱にいる。何をやっても灯を裏切ってしまうが、生き残る道を選ぼう。
壁に片手を付き、ゆっくりとクラヤミ6号へと向かう。
クラヤミ6号にはもう凌平はいない。彼とも距離を置かなければ。俺は幸せになっちゃいけないし、これから人を殺す手伝いをすることになるのだから、凌平とはいられない。
久納が俺のこれからの仕事を凌平に言うのかはわからないが、言うにせよ言わないにせよいつもみたく笑ってこの先もすごさなければ。落ち込んでいるとか悲しんでいるとか、そういった感情を相手に悟らせることは同情に繋がる危険がある。
稲様からもらった狐面があれば表情は隠せるが、あの面はいつのまにか俺の手から消えていた。色小屋ではちゃんと持っていたのに。
そんなことを考えながら真っ暗な廊下を進むと、すぐに俺の部屋へと着いた。以前帰った時には中に凌平がいて、おかえり、とそっけなく迎えてくれた。
それより前は中に誰もいなかったけど、俺の隣には稲様がいた。ただのこっくりさんなのだからそれほど疲弊するはずがないのに、彼はいつも疲れたなー、と元気に言って敷きっぱなしの布団へと倒れこむのだった。
「……稲様」
だめだった。ずっと思い出さないようにしていたのに、思い出してしまった。俺はその場にうずくまるようにして膝を折った。
「うぅっ……」
情けない嗚咽とともに涙が溢れ出す。涙は真っ暗な床に吸い込まれるように消えていく。しんと静まり返った廊下に俺のすすり泣く声だけが響いている。ひとりでも泣きたくはない。いっそう惨めになるし、その姿がはたから見て救いを求めているようだから卑しくて嫌いだ。それなのに、奥歯をかみしめているにも関わらず涙は次から次へと溢れだして来る。
もう、いっそこのまま寝てしまおうか。
部屋に入ったら更に悲しくなって号泣してしまうだろう。
その時だった。
「柊……?」
わずかに視界に光が差し込む。俺を呼ぶ声には覚えがあった。信じられない気持ちで涙にまみれて汚い顔をそのまま晒しながら顔を上げる。
逆光で顔はよく見えなかったが、大きな体とざっくばらんに乱れた髪。そして、そこから見える人間にはありえない耳の形……。
「いな……さま? ――っ」
いきなり腕を引かれ、部屋の中に引きずり込まれる。ドアの直ぐ側には布団があったから、俺はそこに倒れこんだ。次いでドアが閉められる音。
「お前、何泣いてんの? もしや、また誰かにいじめられてんじゃねえだろうな」
すばやくドアを閉めた稲様が体を丸めてしゃがむ。その姿は昔同様犬がおすわりする様とよく似ていた。
「なん……で」
「なんでって、泣いてりゃそう思うだろ」
「ち、違うよ。なんで稲様がいるの……そ、そんな姿で」
「そんな姿? ああ」
気まずそうに嘆息し、稲様が頬をかいた。
「さっき久納から聞いたが、俺1年以上小さい狐姿だったんだってな。自分では寝ておきたみたいな感覚だからわかんねえんだよ」
「で、でも前に少しだけ人型になったよ……。覚えてない?」
「んー……」
稲様が考えこむような仕草をする。
「あー。なんか、夢であったかも。柊以外の誰かがいて、なんやかんやでお前も見た。でも、あんまり覚えてねえな」
「……そうなんだ」
沈黙が訪れる。稲様は黙って俺を見つめてきて、俺はいたたまれなくなり稲様から視線を外した。
「だいぶ、つらい思いしたんだってな」
しばらくして、ぽつりと言葉が落とされた。そらしていた視線を稲様戻す。彼は不釣り合いに神妙な顔をして俺を一心に見つめている。
「色に連れて行かれたんだろ」
「……別につらくもなかった」
「嘘だ」
稲様が俺の頭に手を置いた。久しぶりの人のぬくもりに、また涙がせり上がってくるが、弱く稲様の手を払い泣く前にぬくもりを消す。
「稲様を筒に閉じ込めたのも、灯を殺したのも俺だから、その罰だと思えば全然つらくなかった」
寧ろ、殺して欲しかった。俺も白蛇様の餌になれたらどれだけ楽かとよく思ったものだ。だけど、クチナワは決して俺を殺そうとはしなかった。異形たちや客の人間を見世物の箱に放り込むことはしても殺そうとしてきたことはない。
俺が死にたいと願っていたことを知っていたのか、死んだらもう痛めつけられなくなると思ったのか、それとも全く別の理由があったのかを知ることはできないが。
「でも、俺は出られた」
「は?」
稲様がはっきりと言う。俺が払った手が今度は俺の手を握る。あまりにも真摯な目で見つめられ、振り払うことも目をそらすこともできない。
「灯は確かに死んだが、俺はこうして出ることが出来た。で、柊とまた喋れてる。しかも、俺が筒に入れられたのはお前のせいじゃない。団長とクチナワがなぜ色小屋を作ったのかを知らないで、人間の味方をしてたんだ。どのみち入れられてたろ」
「……でも」
「灯はお前を助けて死んだが、んなこと考えたって灯が生き返るわけじゃねえんだ。異形も人間も、みんな自分のことしか考えらんねえんだから、悩むんじゃねえよ」
「……それ、さっき団長……久納も言ってた」
「久納? なんだよ、あいつお前を励ましたり出来るようになったのか」
「励ましたわけではないと思うよ」
お前は人間を誘い、白蛇様の餌を確保するんだ。
久納が言った言葉だ。でも久納の言葉の裏には元団長の存在がある。気まぐれで空に浮かぶ雲みたいに掴み所がない狐の神様。
「稲様」
「なんだ?」
包み込むような優しい声色に、弱い俺は調子に乗って彼の優しさに飛び込みそうになる。
「俺、人間を井戸に落とす役目をもらったよ」
言うと、稲様の目が驚きに見開かれた。未だ握られている手の熱さを感じながら続ける。
「俺、本当にみんなの敵になる」
イギョウ嫌いの兄弟が脳裏をかすめる。みな虐げられた結果イギョウになって最後には殺されるのだ。それなのに自ら進んでイギョウになるやつを彼らは嫌った。それは稲様が相手だろうが関係ない。住人になることは、現世を捨て、人間を捨てることと同じ。抵抗して足掻いて血が出るほど叫びながらイギョウになる人間が多かったから、イギョウになるという選択はそれだけで疎まれた。
イギョウになったのは俺の意志。稲様を好きになってしまったから。
嫌われて疎まれて俺なんか蚊帳の外で、だから何かに貢献したかったというのもある。自分から人間を捨てたくせに、少しでも人に近づきたくて俺はあの日井戸に入ったのだ。人間が井戸で消える噂があったから、様子を見てみようと思って。
「柊」
稲様には似合わないおずおずとした様子に、俺は不思議に思いながら顔を上げた。すると、稲様は困ったように眉を下げていた。
「俺さあ、寝て起きてもやっぱり頭は良くねえからこういうことわかんねえんだけど、楽にやればいいよ」
自分で倒したくせに、稲様は俺を抱き起こし、正面から肩を掴んできた。
「俺は今幸せだ。なんでかわかるか?」
「……我に返れた」
「違うよ。俺はお前といるといつも幸せなの。単純なことだよ」
稲様は本当のことを言っている。俺をまっすぐ捕えて離さない瞳を見るとそれがはっきりとわかる。
「人間は難しいけど、お前はもう俺達の仲間だ。単純に生きてもいいんじゃねえの。悩んでもそうじゃなくても、世界は何も変わらない」
「ほんとに……そうなのかな」
「そうだって!」
世界は変わらない?
悩んで得た答えで人間関係に変化が訪れたりするのではないか。
こう思ったが、俺の頭はそれ以上考えるのをやめてしまった。縋るように稲様に身を寄せたら、その温かさにすぐにまどろんでしまう。
まるで胎児。何も考えず、母親のお腹の中で安心だけを貪り生きる。
ごめんなさい、と心のなかで繰り返す。灯に対してか、御国に対してか、これから先俺が殺す人間たちに対してかは自分でもわからなかった。