早寝記録

憤っている!

 稲様が復活したという噂を聞いた。柊がひとりぼっちじゃなくなった。凌平は最初から色んな異形に好かれているし、一人じゃない。ひとりぼっちなのは御国だけ。御国だけ。やいやいひとりぼっちだと隣でからかうのが趣味だった。
「くそ!」
 俺は今日もまた色小屋へ出られるはずの階段の前で立ち尽くしていた。久納から正式に箱掃除を命ぜられたのはいつだったろうか。御国と最後に話したのは……?
「青、掃除やるよ」
「う、うん!」
 後ろから穏やかに声を掛けられ振り向くと、もうすっかり見知った顔がすこし困ったように俺を見ていた。凌平だ。彼は御国とは違い、いつも穏やかに俺をここに迎えに来てくれる。その手には御国とは違い俺の分の掃除用具もある。御国は自分の分は自分で用意しろと言って絶対に持ってきてくれないし、俺がどこか探検していたり疲れて寝過ごしていても自己責任だと言って迎えに来ないし、罰としてひとりで掃除しろとかなんとか言って無理やり掃除をやらせたりする、とんでもない奴だった。だけどこうして過去形で御国を思い出すようになってしまったことに俺はとてつもない焦りを覚えている。
 御国と別れてからそんなに日にちは経っていない。だけど、もう会えないような気がしている。蛙の予感はよく当たる。猫が雨を当てるより、俺の予感はよく当たる!
 俺は前を歩く平和な少年を警戒していた。俺が猫だったら毛が逆立っている。だって、御国が変なことを言ったり変な行動をし始めたのはこいつと出会ってからだ。縁もゆかりも恩も恨みもないはずなのにこいつに色々手を貸していたし、いつも生意気な事を言って異形や俺から恨みを買っていたのにしゅんとしたりしていた! こいつがきっと変な電波を発して御国を困らせていたに違いないんだ。
 俺の愛するクソ生意気で憎たらしい御国は凌平に殺されたんだ!
 だから俺はこいつを警戒している。ありえない。ありえない。こいつが何かをしたんだ。だから言ってやる。今日こそは言ってやる!
「りょ、凌平! さんっ」
「……何?」
 いきなり立ち止まり叫んだ俺を彼は怪訝そうに見詰めている。お前、何を企んでいるんだ! こう言いたかった。
「い! いろっ、おれっ、色小屋に行きたい! です!」
「……見てればわかるよ。なんで行きたいかは知らないけど、最近ずっとあそこに立ってんじゃん」
「はい! なんとかしてください!」
「無理だよ。おれ、行ったことすらねえし」
「え?」
「え? って何? もしかしておれ、行ったことある?」
 諦めたような表情で凌平が言う。おかしな顔だと思った。おかしな声だと思った。感情が見えない。
「柊のとこに、凌平さんを御国が連れてった。凌平さん、絶対迎えに来るって言ってた」
「そんなこと、あったっけ? ごめんね。記憶がぐっちゃぐちゃなんだよ。忘れっぽいの。それで、忘れたことも忘れてんの。おれ、なんか思い出さなきゃいけないことある? たまになら思い出せることもあるから、教えてよ」
「……御国のことは?」
「御国? 誰だっけ?」
 驚いた。凌平はいつも本当に穏やかに掃除している。気怠げな雰囲気を纏っているがそれでも真面目に、そのうえ俺を気遣いながら掃除しているのだ。話すことはどうでもいい話ばかり。どこの箱が汚かったとか、異形との心あたたまる話とか、吹いては消えるものばかり。
「ひ、柊は知ってるよね?」
「知ってる。来た時に、世話してくれた。最近は会えてないけど」
「そうなの?」
「人に会わないようにって久納から言われてるから。久納はおれを掃除にすら来させたくないようだよ」
 そうして暗く笑う凌平は人間に思えた。人間にしか出せない、相対しているこちらまで底に引きずり込まれそうな沈んだ表情。
「りょ、凌平さんはそれで良いの?」
「それでって? 忘れたままでってこと? 忘れるって良いもんだよ。多分みんな、思い出せないから苦しむんだ。忘れたことすら覚えてなかったら何も悩むことなんてない」
「じゃなくて、ずっと誰にも会わないで箱掃除してるまんまで良いの? 柊に会いたくねえの? 脱人間してまだちょっとなのに、ずっとここにいる気? 帰りたくないの?」
「そういうのも、だんだん何にも感じなくなるんだ」
 凌平はどこかぼうっとしている。御国と同じだ。あいつも、段々と元気がなくなり、俯き、ぼんやりとした目で俺を見るようになった。
「思い出したほうが良いよ! 思い出せるかもしれないなら、頑張ったほうが良いよ!」
「そうかな」
「そうだよ!」
「そ、掃除は俺がやるし! 思い出したら、もし凌平さんが凌平さんだったら、思い出したらきっと色小屋に行かなきゃってなる! 柊を助けようって思ったみたいに御国も助けたいってなる! ……かも。いや! なってほしい! 願望です!」
 俺はちっぽけな蛙のイギョウで、力なんて何もない。ただ蛙になれるだけの人型の異形。そんな俺がひとりで色小屋に行っても何もできないだろう。
 御国はきっと無事じゃない。凌平を色小屋に連れて行ったのだ。
「ねえ、凌平さん! なんか、覚えてない? クソ生意気で、バカで、すぐ踏み潰そうとする! 勝てるはずないのに悪態ついてからまれて、たまに死にかける奴!」
 こんな事言っても多分ずっと箱で過ごしてきた凌平には伝わらないと思ったが、おれが知っている御国像はこれだけ。凌平の前の御国はこんな生意気じゃなかった。もしかしたら面倒見が良いいいやつに見えていたかもしれない。
「忘れてる人のこと、誰でも良いから思い出して! 思い出そうとしたら、御国は絶対に、絶対に凌平さんの記憶に引っかかるから! 御国を釣って! 凌平さんの糸で!」
 おれの必死の懇願に、凌平は顎に手を当てて目を閉じた。多分、思い出そうとしてくれているのだ! 俺はじっと待った。しばらくして、凌平が目を開けた。
「……一緒に祭りに来た」
 誰のことを思い描いたのか、凌平の瞳にうっすらと光が宿る。
「祭り?」
「……はぐれた、のかなあ。でも、夢かも。景色が赤い……」
 御国のことではないだろうが、それでも何かを思い出すついでに御国のことを思い出してくれるかもしれない。俺は彼の記憶探索に付き合うことにした。
「誰とはぐれたの?」
「誰かな……。友達。ずっと……」
 凌平が不明瞭なことを呟いた。そして、次の瞬間、彼の頬に一筋の涙が伝う。凌平ははっとしたように、乱暴に腕で顔をこすった。思い出すべき記憶が彼にはあるのだろう。思い出したくても何も思い出せなかった御国とも、そもそも思い出すことすら知らない俺とも彼は違うのだ。彼の中にはたくさんの過去が黒く塗りつぶされたまま眠っている。灯の道から来たとはそういうことだ。記憶を奪われる暮とは違い、灯は記憶を隠される。隠されたものは探せば見つかることがある。
 何でもいい。凌平の中にある記憶を辿っていき、やがて御国に繋がればそれで良い。
「……記憶、凌平さんが思い出しても良いと思ったら、俺、付き合うから。言ってください」
「あ、ああ。ありがとう」
 涙には敢えて触れない。これ以上は聞かない。なんとなく、俺が何も言わなくても、過去のことを考えてくれるだろうと思った。