久納許すまじ!
稲様が脇目もふらずに向った先は久納の部屋だった。クラヤミ廊下のどこらへんかにある、やたら派手な看板がある所。看板は高い頻度で変えられており、今は紫色の看板の周りを丸いピンクの電飾が囲んでいる。目が痛かった。稲様はノックもせずにドアノブを回し、中に入った。
「久納! 客だ!」
おずおずと稲様と柊のあとから中に入ると、面だらけの部屋の真ん中に、主が困惑した顔で座っていた。久納だ。クチナワと犬猿の仲の箱の団長さん。
「……客?」
「ああ。おれだ!」
「うるさいのが来たなあ……って」
久納が稲様の後ろにいる俺たちに気が付く。
「柊と青、か」
「ああ。ちょっと相談があって来たんだけどよ。入るぞ」
「また人間の子守? お前も好きだねえ。それに、もう入ってるし」
「イギョウだろ。人間じゃねえ」
「はいはい」
部屋は香の強い香りに包まれていた。目眩がするくらい強く、香りに支配されている感覚。部屋の隅には凌平もおり、ぼんやりと宙を眺めている。俺達の存在に気付いているのかそうでないのかすらわからない。おそらく久納がこいつに何かしているのだろうが、こんな死んだようになっても傍に置いておく意味はあるのだろうか。
御国が凌平と出会い、おかしな言動をするようになってから俺は不安だった。御国をからかっても煙を殴るように手応えがないし、まるで御国の殻を被った別人のようだった。俺の知っている御国ではないと思ったが、それでも別人とは考えられず、早く元の彼に戻って欲しいと願った。
「久納さあ、御国がどうなったか知ってる?」
「さあ? 色小屋の情報は知ろうとしない限りわからないからね。団長に聞けば?」
「まだ許してもらってねえから会ったらまた筒に入れられるだろ。会ってねえから面倒臭がってあいつは何もして来ねえんだよ」
「今更だ。もう怒ってないと思うけどね。第一あの時と今じゃ状況が変わっただろう。もしもお前があのまま人間側に付いていたって結果は変わらなかったこと、団長はわかってるさ。ってことでじゃあね。もう俺に用はないだろう?」
「御国がどうなったか調べてくれ」
「いやだ」
「久納」
「嫌です」
「なんで」
「俺はさあ、今平和な時を過ごしてるの。邪魔しないでくれないか」
そう言って、久納は部屋の隅でぼんやりとしている凌平に慈しみの視線をやった。
「な、なんで久納は凌平の記憶を奪うの?」
半ば無意識に発言していた。部屋のすべてのものが俺に注目する。心が迷子の凌平ですらこちらを見遣る。その目にはやはり生気がなく、今の柊や、以前の御国と同じだ。
「なんだい。やぶから棒に」
「凌平が忘れっぽくなったって言ってた。ひ、柊とのことも、御国のことも忘れてる。そうでしょ、凌平」
凌平に問いかけるが、答えたのは久納だった。
「それは最初からだよ。彼は灯の道から来たんだ。記憶は失われていくものだ」
「住人になってからのことも忘れるなんて聞いたことがないよ」
「ちっぽけな蛙に、ここのことがわかるわけないだろう? 自惚れるんじゃない」
「りょ、凌平を小屋から出さないのも、見世物が入ってる時に掃除させないのも記憶に靄を掛けるためだ!」
「だとして、お前になんの関係がある? 凌平もこれで良いと言ったんだ。ちゃんと許可は得ている。ねえ、凌平。そうだろう?」
「うん。言ったよ。好きにしてくれって」
「凌平さん!」
「凌平……」
柊が呟くのを俺は聞き逃さなかった。俺よりずっとずっと柊の方が凌平と仲が良い。昨日の凌平の話し振りじゃ柊に関する記憶もあまりないようだが、もしかしたら柊がきっかけとなって何か思い出してくれるかも。柊は今腑抜けているが、友達の危機に思うところはきっとあるはずだ。俺は心の中で、全力で柊を応援した。
それなのに柊は名前を呟いた後何も言わずばつが悪そうに俯くだけだ。腑抜けている! なんでこいつがこんな風になっているかなんて知らないが、どいつもこいつも腑抜けてる! 芯がしっかりしていて新鮮なのなんて俺くらいなもの! 御国も腑抜けていたし、もしかしたらそこら辺で蒟蒻に生まれ変わっておでんになっているのかも!
「とにかく、協力するつもりはないよ。この小屋も、どうせ白蛇が死ぬまでの運命だ。あと少しで全部終わる。どうせ終わるなら、その時までおとなしくしてようじゃないか。大事なものはしっかり抱いてないと、簡単に壊れてしまうよ」
「一旦引く」
稲様が俺たちに部屋から出るように促した。
「一反木綿も仲間にしたいねえ。あいつら、人を襲うし」
くすりと久納が笑う。ちゃんと俺達の話を聞いてくれる気が彼にはないのだ。悔しい思いを抱きながら連れ立ってクラヤミ廊下へと出る。出る時に見えた凌平は、またぼんやりと宙を眺めていた。
柊の部屋に戻り、再び作戦会議を開く。しかしその前に敷きっぱなしの布団を蛙一匹で片付けなければならなかった。稲様はどうせ寝るから敷きっぱなしでいいだろと適当なことをいうし、柊は心ここにあらずだし。そして心なしか、彼らが箱で散歩していた時よりも更に柊の元気がなくなっていた。
「作戦を変えるぞ」
柊の様子に気が付いているのかいないのか、稲様が普段の調子で膝を叩く。
「久納は頑固だし今何を言っても無駄だ。だから、凌平の方を攻めよう」
「凌平の方? どういうこと?」
笑みはなかったが、柊が尋ねた。
「久納が可愛がってる凌平に頼んでもらうんだよ。人の子に興味を持ってあまつさえ可愛がるなんてあいつにとっては初めてのことだろ。凌平が本気でお願いしたら久納だって聞かざるをえない」
「でも、あの状態の凌平に頼めないよ。俺達の声が聞こえてたかさえわからないもん」
ここで俺は思い出す。いや、どうして忘れていたんだろう。
「でも、凌平さん掃除の時は割と普通だよ。会話も通じるし、そういえば、昨日御国を思い出してって頼んだんだけど、ちゃんと考えてくれたよ。御国のことも、柊と過ごしたことも忘れてたけど、さっきみたいにぼんやりはしてなかった」
「凌平は、御国のことを思い出せたの?」
「いいや。なんか、祭りに来てはぐれた人をちょっとだけ思い出したみたい。凌平さんにも誰か詳しくはわからないみたいだったけど、友達って言ってた」
「そっか……」
「じゃあさ! そいつを思い出すように仕向けようぜ」
柊の暗さを吹き飛ばす勢いで稲様が笑う。俺は今も昔もちっぽけな蛙の異形で、偉大な稲様とは話したことすらなかった。俺は昔から御国をからかって遊ぶのが趣味で、ほとんどの時間を色小屋で過ごしていた。遠くから稲様のことを見ていたけれど、その時の印象は太陽のような人で、今こうして近くで話ていてもその印象は変わらない。根拠はないけど、稲様が協力してくれる限りどうにかなると思える。
「でも、凌平がちらっと思い出した人って全然関係ない人だよね。思い出したって何にもならないし……」
そう言っている柊の表情が懐疑的なものに変わる。
「あれ? でも、生きていた時のことはもう思い出せないはずだよ。稀に思い出とかが蘇るらしいけどそれは靄が掛かった情景とか気持ちとかだけで、人を思い出すとか、具体的な場所を思い出すとかはありえない」
「それでもありえたから思い出せたんだろ。ありえないなんていう決まりはここにはねえよ。前例がないだけで、これからもないなんて誰にもわかんねえんだよ。人間のためにある世界とは違って、可能性に0はない。っていうのは置いといて、凌平が思い出したのが友達だろうがそうじゃなかろうがそれはどうでもいいの」
「どういうこと?」
「凌平と仲良くなるのが目的。仲良くなって、久納に頼んでもらう」
「そこに落ち着くんだ」
「それしかねえだろ。のんびりしてても良かったら俺が団長に許してもらってからで良いけどさあ。お前ら別に死体を探しに行くんじゃねえんだろ。生きてる奴はなんでも鮮度が大事だから、先延ばしにしたら腐っちまう」
「ひ、柊なら高速で凌平さんと仲良くなれるでしょ! 掃除! 一緒に掃除しようよ!」
俺の必死の提案に、柊の表情が曇る。膝を抱えて座っていた彼は、まるで自分を守るかのように、両膝を抱える腕に力を込めた。
「俺は箱掃除を命じられていないから、無理。それにさっきのこともあるから、俺が凌平に近づくのなんて久納が許さないよ。青が仲良くなるしかない」
「でもでも、俺まともな人付き合いしたことない。俺、誰とも仲良くなったことないし、仲良くなろうとしたこともないんだ」
「御国は?」稲様が言う。
「さっき柊を怒ったのも、色小屋の階段眺めてんのも、御国と仲良いからじゃねえの?」
「仲が良いとは違うよ」
そもそも俺はこんなにも必死に御国を探すことになるとは思っていなかった。からかいがいのある生意気な人間の子。俺の御国に対する感情は精々こんなものだった。
御国に人の子たちが持っているような、綿菓子みたいな情があるとは思えない。だって、俺は異形だ。イギョウかもしれないが、少なくとも人間の頃の記憶や人間だという意識はない。
途端にわからなくなった。俺はどうしてこんなに御国に会いたいのだろう。なぜ御国からのいなくなったら喜ぶかという問いに対し、どう答えたかすら忘れてしまった自分を許せないのだろう。
「急に、いなくなるから悪いんだ」
そうだ、きっとそう。
「仲良くなくてもずっと一緒に居たのに、挨拶もなしに消えるから、俺は怒ってる」
「まあ、挨拶は大事だな」
稲様が同調してくれる。彼は、人間のような情を知っているだろうか。
「俺、とにかく凌平さんと仲良くなろうとしてみる! それで、御国の居場所探って、会って、文句言う!」
理由はわからないが、俺が御国にもう一度会いたいのは動かしようもない事実。俺は蛙だから頭が悪い。きっと考えない方がうまくいくだろう。
「おれもなんとか団長に許してもらう作戦立てるよ」
からりと笑う稲様に挨拶をして、俺は柊の部屋から出た。そして、掃除が始まるまで人間の思考について考えたのだ。