早寝記録

風の噂!

 音を立てずに火野兄弟の箱に近づき、覗き穴から中を覗く。「いた!」小声で兄弟に告げる。凌平は、俺と別れた時と全く同じ位置に、全く同じ姿勢で座っていた。まるで彼の周りだけ時が止まっていたかのようだ。どんな暗いことを考えているのか、俯いている顔は見えない。
「いつまで覗いてんだよ。入るぞ」
火野兄弟は何のためらいもなしに箱の中に入っていった。凌平は火野兄弟が突然箱の中に入ってきてひどく驚いたようだ。俯かせていた顔を勢い良く上げ、ひ、と喉を鳴らした。
「よお。すげえ驚きようだな」
「久しぶり。掃除に復帰してるなんて知らなかったよ。前まで営業終わってすぐ来てくれてたのにさ」
「……まあね」
「凌平さん、火野兄弟のことは覚えてるの?」
 俺の質問に、凌平は普通に答えてくれた。
「知ってるだけ。話してたのもわかるけど、内容は思い出せない」
 凌平の答えに、弟が重症だな、と呟く。その後、火野兄弟は凌平を囲むようにして床に腰を下ろした。なんとなく居辛くて、俺は皆と少し離れた入り口の所に座った。箱の中の空気は決して軽いものではない。主に凌平が拒否的なのだ。俺は住人になった後の凌平しかしらないけれど、初めの頃の凌平は箱によく馴染み、火野兄弟含めた見世物たちとも仲良くしていると言われていた。そのため、俺は彼は温かくフレンドリーな人物だと思っていたのだ。
「じゃあ舜の話も覚えてねえのか?」
「え? シュン?」
 火野兄弟が顔を見合わせる。
「お前が忘れたくねえからって俺らにいっつも話してたじゃねえか。確かに、途中から言わなくなったけどさ。本当に忘れちゃったのかよ。あれだけ忘れたくねえって言ってたくせに」
 兄の方が半ば責めるように言った。凌平は思い出せないらしく、困惑している。
「もしかして、凌平さんと一緒に祭りに来て、はぐれた友達じゃない? 昨日言ってた」
昨日の凌平の言葉を思い出す。
「おれが? 昨日?」
「一緒に祭りに来てはぐれて、ひとりでここに来たって言ってたよね」
「……思い出せねえ」
 これまでは諦めるような表情をしていた凌平の顔に、悔しさが滲む。
「おれ、本当に昨日そんなこと言ったの? 火野に、友達のこと話してたの?」
「絶対忘れたくねえって言ってたくせに、俺達の方が覚えてるとか何事だよ。お前も大事な人間を捨てて、異形と楽に生きるのを選ぶような奴だったんだな」
「兄貴」窘めるような弟の言葉を無視し、火野兄は続ける。
「別に良いけどさ。でも自分から記憶を捨てるお前を、俺は軽蔑する。ああ、やっぱ実際会うとダメだな」
 火野兄が乱暴に頭を掻き毟りながら立ち上がる。
「自分で人間を捨てる奴見ると、いらいらしてしょうがねえ」
「兄ちゃん、目的忘れてんの? 俺らは詰るためじゃなくて腑抜けた凌平に縋るために来たんだろうが」
 火野弟の言葉もさり気なく辛辣だ。
「思い出まで捨てるやつが協力するわけねえだろ。ほんと、馬鹿言ってんじゃねえよ」
 凌平が唇を噛む。人間らしい表情に、俺は今なら行けるかもしれないと思った。
「凌平さん! お願い! 風に噂を聞いて欲しいんだ! 御国の噂を聞いて欲しい! 俺たちじゃ教えてくれないかもしれないから! 凌平さん、仲良いんでしょ?」
 両手を合わせ、凌平に必死に頼む。もう風の噂に頼るしかない気がするのだ。凌平が少し迷い小さく頷く。
「それくらいなら出来る」
 火野兄弟の言葉に凌平は何も言い返さず、すくりと立ち上がった。
「付いてきて」
 凌平が俺たちを率いて向ったのは風の何かが入っている箱。箱の中に風が吹くというだけのつまらない見世物だが、小さい異形たちに人気で、彼らはよく箱の中に入って風と遊んでいる。俺も蛙の姿になれば彼らのようにぐるぐると風に巻き上げられ遊べるだろうが、気持ち悪くなりそうで風に遊ばれたことはない。
「頼みがあるんだ」
 凌平が箱に向かって一言告げると、どこからともなく風がびゅうと吹く音がした。
「なんだい? 凌平。珍しいなあ。話しかけてくるなんて」
「いつも手伝ってくれてありがとう」
「いえいえ、埃集めも得意なんだよ。風だから」
 もちろんだが、風は目に見えない。けれど頬や背中に当たる風で、確かに風の何かが存在していることがわかる。
「今日はたくさん仲間を引き連れてきたんだね。まあ、喧嘩していたようだけど」
「ケンカじゃないよ」
「そうかい? 風に乗って良くない空気が届いたんだけれどねえ」
 ふふふ、と揶揄するように風が笑う。
「……色小屋に御国っているでしょ? そいつの噂を知りたいんだ。どうもいなくなったらしくて」
「御国くんだね? 良いよ。誰でもない君の頼みだ。噂を集めるから耳を澄ませておいで」
「うん」
 凌平が目を瞑る。俺も耳に手を当てて、聞き漏らさないよう集中する。すると、頭の中に直に声が響いてきた。キンキンと、小さな異形たちが調子を付けて歌っているような、聞き慣れない高い声。
『御国が落ちたね』『井戸の底』『死体を蹴りたい』『叶わない』『井戸の底の白蛇様は』『哀れな御国を食べたろか』『そんな噂が聞こえるが』『御国を見たものいやしない』
今度はだみ声の奇妙な声が聞こえてくる。
『汚えなあ。誰の血だよ』『脳髄だろ。なんかの』『御国はどうした? あいつ、こんなに掃除下手だったか?』『最近掃除してねえらしいよ』『見世物期間終わっちまっただろうが。掃除に復帰するって聞いてたけど?』『そこまでは知らねえよ。でも、しばらくあいつを見たやつ居ねえよ』
それから様々な御国についての噂話が入ってきたが、皆しばらく御国を見ていないようだ。井戸に落ちたという言葉がおれを不安にさせたが、一番はじめに聞こえたキンキン声の異形たちの歌に対する信憑性も低い。ただひとつ、御国が行方不明だということが事実だとわかった。それにしてもおかしい。御国がいなければ代理の掃除夫が立てられるはずなのに、聞いていると、今色小屋はすごく汚いみたいだ。しばらくして、音が止んだ。
「どうだい? 何か情報を得られたかい? 役に立てたなら嬉しいな」
 ふわりと心地よい風が頬を撫でる。
「うん。ありがとう」
 凌平が風の何かにお礼を言って、俺たちを振り返る。
「どう? まだ聞きたいことはある?」
「今のところはないです! あ、あの、風さんありがとう!」
風にお礼を告げると、ふわりと髪が風に靡く。御国が死んだ姿を誰も見ていないことが少しだけ俺を安心させた。
 しかし、安心しているばかりでもいられない。御国が死んでいると知っているものもいなければ、御国が生きているところを見たものもいないのだ。誰も何も言わなかったが、あまり心地いい空気とは言えない中で火野兄弟の箱の中に戻ってきていた。あれだけ責められて居心地が悪いだろう凌平もいる。みな何かを考え込んでいるように黙りこくっている。重い空気が場を支配していた。
「俺が色小屋に行ってみようか?」
 突然の軽い提案に顔を上げる。凌平と、火野も驚きの表情でそいつ――火野弟を見た。
「うわ。何みんな驚いてんの。つーかさ、考えこんでるみたいだけど、色に行ってクチナワに聞くのが一番手っ取り早くない? 今はさあ、いつ御国の死体を啄んだみたいな噂が流れてもおかしくない状況なんじゃねえの?」
「そ、それはそうだけど……」
「俺、クチナワに目付けられてるわけじゃねえし、やばかったら逃げ帰ってくるよ」
「お前、何言ってんだよ。客でもない俺達が行って、どうなると思ってんの」
「行ったことねえからわかんないじゃん。全然平気かも」
「みんなイギョウにされただろうが! 御国が人間のままいられたのは、クチナワがいたからだ。あいつはクチナワの掃除夫だったから今まで異形共から手を出されなかったんだ。お前は違う」
「はあ」
 火野弟が大袈裟に溜息を吐く。その隙を見て気になっていたことを問う。
「なんで弟君はこんなに協力してくれるの? 御国と仲良しだったっけ?」
「別に。協力するのもなんとなく……ってわけでもないけど」
 火野弟は昔から抑揚がなくマイペースだ。俺は話したことがなかったけど、俺は御国の頭に乗っていて、御国がこの兄弟とたまに話していたから少しはわかっている。今も火野弟は俺達の驚きだとか疑問なんて気にしていない様子で手遊びをしている。
「前は人間でいよう、生きていこう、いつか帰ろうみたいな感じで灯とか他の人間たちと頑張ってさ、その内にみんないなくなって、俺達だけが残って見世物になってる。ねえ兄貴、俺たちに未来はあるのかな」
「未来って……」
「ないんだよ、そんなもの」
 火野弟が穏やかに告げる。
「ここは狭間の世界だ。狭間って言うのは、生と死の間。間に来てしまったら、もう生きてる方には帰れないんだよ。俺が皆まで言わなくてもそれはわかってるはずでしょ」
 弟にじっと見つめられた火野兄は何かを言おうとしたが、何も言わずに口を閉じる。
「もう帰れないよ。死んだって魂はここに留まり続ける。諦めよう」
 弟の言葉を聞いて、火野兄は俯いた。そして立ち上がり、一言もなく箱から出て行く。火野弟は、そんな兄をただ目で追っていた。ひとり減った箱の中は、なんだか寂しい。
「……追わなくて良いのかよ」凌平が静かに尋ねる。
「良いよ。兄ちゃんもわかってたことだし。それに、やけになって何かをする奴でもない。部屋に返ってめそめそするだけ」
 手遊びを止めた火野弟が、俺を見た。普段通りの落ち着いた目。
「俺、行っても良いよ。クチナワに聞いてくれば良いんでしょ」
 お願いします、と頼んでしまいたい。こう思ったが、人間的には、ここで素直に火野弟に任せてはいけない気がする。俺はもう御国の無事がわかったらそれでいいわけじゃない。御国と再会した時、堂々と、恩着せがましくもう心配をかけるなと言いたいんだ。お前の頭が俺の居場所なんだぞと、偉そうに詰りたい。そのためにはここで火野弟を色小屋に行かせてはならないと直感した。
掃除が不十分な色小屋。そこにはもちろん異形やイギョウの断片や血液が落ちているだろう。それらは異形たちを興奮させ、攻撃性を高める。そんな場所に箱の人間が行ったところで、クチナワまで辿りつけずに喰われるだろう。
「おれ、まずは稲様に相談しに行く!」
「稲様? ああ。復活したんだっけ? 良かったよね」
「うん! 今相談に乗ってもらってるんだ。それで色小屋に行くしか方法がないって答えが出たら頼むかも! その時はよろしくね」
 火野弟に近づき、ぎゅっと手を握りしめる。温度なんかなさそうな顔をしているくせに、手は温かかった。