早寝記録

 井戸の外には湖があった。
 しかし、おれが襲われて井戸から落ちた時とは雰囲気が違う。宝石を撒き散らしたように地面に存在していた記憶のカケラたちはなく、その代わりに、深い青の夜空に星よりも強く輝く白が光を放っている。
「まずは小屋に戻る」
 クチナワがこの前おれが抜けてきた小道に足を向けた時、茂みから草を踏みしめるような音が聞こえ、おれたちはみな警戒してそちらに目をやった。
「あ」
 最初に声を発したのは御国だ。
 茂みの中からおれたちの前に躍り出てきたのは、一匹の小さな蛙だった。青い空間の中でも彼の青は際立っていた。
「み、みくに?」
 蛙――青が声を発する。
「み、み、み、み、ミクニー! 御国! 御国! 御国!」
 待ちきれない様子で青が叫ぶ。彼はこれが現実なのかわからないといった風情で頬を紅潮させ、その場で飛び跳ねている。
「なんだよ、うるっせえな。お前は相変わらず……」
「みくにー!」
 御国の憎まれ口をものともせず青がついに御国の元へとかけ出した。途中で人間の姿になった青は足をもつれさせながら、雨傘模様の派手な着物の裾を翻しながら一目散に駆け寄った。御国に接近したところで、青はまた蛙の姿になり御国の肩に乗る。そして、甘えるように鼻先を御国の首元に擦りつけた。
「ばかじゃねえの」
 弱々しい声で御国が言い、指先で蛙の背に触れる。一瞬、懐かしむように御国の目が細められた。青は蛙姿のままぴょんと御国の頭に飛び乗って、もう離れないぞと言わんばかりに御国の頭にへばりつく。
「気持ちわりい! おい青、べたっとくっつくなよ!」
「いやだ! ちょっとでも離れたらお前は困った子だからすぐにどっか行く! いやだ! いやだ! 俺はここにいる!」
 ここにいる! と青が繰り返す。その声は次第に震え、やがて涙声に変わる。
「泣くなよ……。なんで、泣いてんの」
 御国は頭にへばりつく青を無理やりはがし、左の手のひらの上に乗せた。小さな蛙の大きな瞳から、人間のような涙がぽろぽろと零れ落ちていく。御国の質問に、泣きじゃくる蛙は答えられず声を詰まらせた。
「……一生懸命探してくれてたんだってな」
 御国が指を器用に動かし、蛙の背を撫でる。ふたりの様子を、おれたち――クチナワも含めて――は静かに見守っていた。
「ありがとうな」
 記憶の欠片で聞いたのと同じ、不良っぽい見た目に似合わぬ穏やかな声で、御国が青に告げる。それから優しく青を自分の頭の上へと乗せた。
 青が泣き止むのを待っておれは尋ねることにした。青は柊と稲様と一緒に身を隠したはずなのに、なぜこんなところにいるのか疑問に思ったからだ。久納が帰ってくるまで彼らは小屋から離れている予定だった。
「青、柊と稲様は?」
「ふぇ。は、はい」
 御国の頭の上で、青が背筋を伸ばす。
「ええと、俺、昨日まではふたりと一緒に隠れてたんだけど、やっぱじっとしていられなくて、ここでうろうろしてたんだ。ふたりはまだ隠れてると思うよ」
「どこに隠れてるの? そこは安全?」
「どこかはわからないけど、小屋の外です」
「範囲広すぎんだけど」
 御国が突っ込む。
「人間たちの世界のちょっと手前。ずっと動いてるから範囲広すぎって言われてもなんですけどー」
「久納は元団長の居場所わかんねえの? 呼ぶこととか、できる?」
「無理だよ。団長はわかるだろうけど、俺にはわからない」
「じゃあ、稲様の居場所は? 匂いでわかったりとか……」
 クチナワに会った後、大嫌いなにおいがする、と鬼のように言った久納を思い浮かべたが、久納は首を横に振るだけだった。
 おそるおそる御国がクチナワを見る。
「俺がわかるか」
 面倒くさそうに言い、クチナワが井戸のふちに座る。クチナワは井戸の中で御国と現れた時からずっと顔色が悪い。随分と疲れているようで、今彼の額には玉の汗が浮かんでいる。

 ふと沈黙が降りた。改めてあたりを見ると、空も湖も一面瑠璃色で、空中にラピスラズリを砕いてまき散らしたような輝きがある。何が反射しているのか、おれたちを囲む木々も井戸もすべてに青が照射されていた。やはりあれだけあった記憶の欠片はひとつも見えない。
 考えなければいけないのに、おれはしばらくすべてを忘れて青の世界に見入った。幻想的で美しく、まるで世界に自分が溶けてなくなるような感覚。でも、それは突如響いた何かが足元に落ちる音によって消え去った。