クチナワ
『おれ、舜がいなくなったら独りだよ……』
白蛇様に記憶を見せてもらわなくて良かったと心の底から思った。御国舜そのままの記憶があったら、俺は死ぬとわかっていても凌平の手を取ってしまう気がしたから。全てを忘れている今の俺でさえ、目の前の少年とこの湖から逃げ出したいと思っているのだ。
凌平は、どうにかなぐさめようと伸ばした俺の腕の中でおとなしくしている。俺に記憶はないが、多分俺の細胞に染み付いた懐かしさが胸に湧く。
団長が怒っているのに、危機感は遠い。
「してクチナワよ」
「なんでしょう」
顔を上げ、少しだけ離れたところにあるクチナワの背中を見る。久しぶりに見たクチナワは俺の記憶の中の姿よりもやつれていた。見世物になっていたというが、団長を怒らせる何かをしたのだろうか。
何よりも俺が驚いたのは、それを聞き、無事でよかったと安堵した自分に対してだった。
俺は、クチナワに必要とされたかった。殺されたくない以前に、ずっと『俺の』掃除夫だと言い続けられたかったのだ。孤独をこじらせていた俺は、所有格で語られることが嬉しかった。
今まで見ないようにしてきた自分の心を掬い上げてわかることは、俺はクチナワの傍を自分の居場所にしたかったことと、今頭の上で不安げに成り行きを見守っている蛙と友達になりたかったこと。
凌平から青が俺を頑張って探していたことを聞いた時に浮かんだのは、どうしてという疑問と、嬉しいという単純な感情。
クチナワが動く。目の前に彼の背中が来る。
「なあクチナワ。なぜお前はそれを後ろに隠す? この前の仕置の礼か? それなら、また虐めてやろう」
団長は笑みを崩さない。
「……あなたは白蛇がこれに唆されたと思っているのではないでしょうか。これに言いくるめられて人を拒否している、と」
「あいつから御国に憑いていたことがあると聞いている。気に入っているのだろう。色小屋と同じく甘い匂いがする」
「白蛇はこの匂いが好きで、色小屋も甘い匂いにしましたから」
俺の位置からはクチナワの表情は見えない。けれど、少しだけ見える彼の顔が変化しているのがわかってしまった。
「クチナワ……?」
「うるさい。黙っていろ」
いつも薄っすらと見えている彼の頬の痣が、今ははっきりと見えている。まるで本物の蛇の皮膚だ。喪服から見える皮膚面積は少ないが、手の甲にもはっきりと蛇の鱗が浮き出ていた。
「クチナワ、何をする気だ」
今まで黙っていた久納がわずかに焦ったような声を出す。
「何もしない。ショックで放心していたビビリは黙っていろ」
「おい」
まさか、クチナワは自身に憑いた蛇で狐の神様に戦いを挑むつもりなのだろうか。
「なあクチナワ。みな、白蛇などもうどうでも良いと思っている。人を喰わねばあいつは消えてしまうというのに」
それでも団長は鷹揚な態度を崩さなかった。
「そうですね」
「みな、殺さなければいけないな」
美しいものを褒めるような口調だった。表情も口調の通りで、発した言葉との差が激しすぎて混乱する。
「……団長。俺は、白蛇が好きだ。死ぬことも出来ず苦しんでいるところを拾われ、今まで育ててくれた。本当の親以上の愛情をもらった」
クチナワがいつもの敬語を外す。
「その白蛇が、俺と、御国の信仰だけで生きたいと言っているんだ。そして、死ぬときはあんたに看取られたいと。もう、人は喰わないと言ってる。俺はあなたのことも大切だと思っているが、白蛇の思いを尊重したい。だから、御国を殺すことはできない。そして、人間を落とすことももうしない」
クチナワが言い切る。
「あなたでさえ、俺を、俺の中の蛇を殺すことは出来ないだろう」
「ああ。でも、瓶の中に詰め込んで、永久に苦しめることはできる」
ふふ、と団長が笑うが、一瞬にしてその表情は崩れた。
「思いを尊重したい?」
団長の笑みが心底バカにしたようなものに変わる。
「お前は、風が吹いたら死ぬ人間のようなことを言うな。ああ、そうか。お前は人の子だ。特別に教えてやろう。良いか、すべてのものは消えたら終わりだ。消えてしまえば尊重する思いも消え失せる。存続こそが全てだ。消えさえしなければやり直せる。あいつも今は弱っているが、また幾数の時代を超えれば以前のように生きられる時が来るだろう。それまではなんとしてでも――」
「諦めろ。そんな時代はもう来ない」
クチナワが団長の言葉を遮り、言葉をまるで凶器のように飛ばす。団長は目をつぶり微笑んだが、彼から何かが飛んできてクチナワの頬を傷つけた。一筋の赤い血がクチナワの頬から垂れる。
「人間の温かな信仰があったからこその穏やかな日々だった。人を喰った白蛇にも、化け物の信仰に浸かりきった狐にも、血に塗れた俺にも穏やかな未来なんてない」
団長からまた何かが飛んでくる。
「あっ」
それは横に伸ばされたクチナワの腕を突き刺した。彼の腕の後ろには、背中からはみ出した凌平がいる。
「あ、お、おれ……」
事態を悟ったのか、凌平が青ざめた顔を上げる。その隙に団長を窺いながら走り寄って来た久納に向けて凌平を思い切り突き飛ばした。
「ちゃんと見ていろへたれめ」
クチナワが久納に言い放つ。
「いい加減諦めろ」
腕に刺さった太い棘のようなものを抜きながらクチナワが団長に向けて怒気を孕んだ声を出す。彼の腕から大量の血が吹き出した。
なぜかわからないが、彼は俺を背中に隠し守っている。そんな場合ではないのに、彼の掃除夫だった時のことが頭のなかを駆け巡る。
大事になんてされていなかった。クチナワが蛇を使って襲ってきたことだって一度や二度ではないし、優しい言葉をかけてもらったこともない。
『色小屋にいて、あれだけ異形とけんかしながら人間でいるなんて、普通ならありえないね』
井戸で久納が言った言葉だ。
俺にはわからない。クチナワが俺に対して何を思っていたかなんて全然わからない。最後、俺は捨てられたと思った。箱で稲様を助けるような真似をしたのがバレて色の見世物にされたあと、ゆっくり休めと優しく言われた時に俺はこいつの掃除夫ではなくなったのだ。
『お前は、いつも殺されると怯えたような顔で俺を見るが、俺がお前を殺そうとしたことがあるか?』
前にクチナワからもらった言葉。人間らしく、苛立ったように言われたのを覚えている。やることをやっている限り殺さないから安心しろ、といってもらえたんだった。
彼の言葉を俺は信じていなかったけれど、もしかしたら拒絶して独りぼっちを気取っていたのは俺の方だったのかもしれない。本当に、もしかしたらだけど、クチナワは俺の傍にいてくれようとしていたのかも。……でも、優しくされなかったし、怖いのは事実だから、そうだとしたら悪いのはクチナワの方だと思うけれど。
真実を知りたいと思ったが、今ならば俺は自分の勝手な想像だけで満足できる。いや、想像じゃない。現に、クチナワは今俺の前に立っている。
「本当に、お前は稲見や愉快とは違う、いい子だと思っていたのに」
また何かが飛んできてクチナワの顔や体を傷つける。
「クチナワ、良いよ。ありがとう」
頭の上の青を掴み、久納の方へぶんなげる。
「ヒギ! み、御国ー!?」
そして、湖の出口へと走り出す。御国、といろんな人に呼ばれた。ふと見ると、凌平と青は久納に拘束されている。
「馬鹿なことをするな」
クチナワが荒い言葉を放った瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。足に何かが絡みついた感覚。確認すると、足元に透明な蛇が絡みついている。
「団長。俺は逃げないから気が済むまでやればいいが、これだけは言わせてもらう。白蛇はあれだけ人を喰っている時でさえ人型にはなれなかったのに、今はこの小さな信仰だけで人型を保てているんだ。……ちゃんと、俺が話しかけても聞いてくれるし、意味の有る言葉を返してくれる。どうしてそのまま、優しいままの白蛇のまま死なせてやろうとしないんだ!」
攻撃が止む。
「前回は、こいつが供えた甘いお菓子であいつは自我を保っていた。必要な物は人の血じゃない。ちっぽけでも良い、純粋な信仰だ。祠すら消えてしまった白蛇に、生き続ける道はもう残されていない。白蛇は、あんたに会いたがっている。どうか、会ってやってほしい」
クチナワの叫びを聞いたのは初めてだった。こんな悲痛な声も、初めて聞いた。
気づけば、俺達の周りにはなんの音もなかった。音をなくした青い空間で、みな何も言えず動けずにいる。
「くだらないな」
団長が一言吐き捨てる。
「話にならない。もういい。わかった」
彼の笑みは完全に消え、ここに来て人間らしい複雑な感情を伴った表情が生まれた。動いたことなんてないだろう眉は寄り、眉間に皺が刻まれる。口元も、不快そうに歪められていた。
「何も言わない久納も、もう私の仲間ではないということでいいな?」
「団長……俺は……」
久納が何かを言いかけて口を閉ざした。ぎゅっと腕の中に閉じ込めた鬼の子と蛙を抱き寄せる。その様子を見て、団長がふん、と鼻を鳴らす。
「私は、また以前のようになると思っている。だからあいつには今会う必要はない。最期の思い出のための再会などいらない」
「3日です。それ以上はもたない。考えて……会いに来てください」
その場で光に包まれて消えゆく団長にクチナワが告げた。