早寝記録

 団長が去った瞬間クチナワが小さく呻いてその場に膝をつく。それと同時に俺の足を掴んでいた蛇も消え、俺はクチナワの元へ駆け寄った。同じくして久納たちもこちらに来るのがわかった。久納の手の中にいた青が恨み言を言いながら俺の頭に飛び乗る。
「クチナワ……」
 久納がつぶやく。
「なんだへたれ」
「……流石に言い返せないな」
「言い返せばいいだろう。……初めての反抗なんだから」
 明らかに息が荒い。腕からは未だ血が流れ続けている。顔にもたくさんの切り傷があるし、服も破けている。いつの間に飛ばされたのか、眼鏡もなかった。けれど、さっきまで本物のようだった頬のウロコはいつもの薄さまで戻っていて俺は安心した。
「舜……」
 声がかかり見上げると、凌平が真っ白い顔をして俺たちを見下ろしていた。こいつは今は見世物小屋に来る以前の凌平だ。こんなの『現実』じゃないから怖いし、戸惑っているだろう。
「だ、大丈夫なの……? びょ、病院とか……なさそうだけど」
 それでも彼はこの短時間で自分が置かれている状況が普通では無いことに気づき、受け入れようとしているようだった。それを知り少しだけ切ない気持ちになる。だって小屋に戻ったら今『ここにいる』凌平は消えてしまうのだ。
「気にするな。俺は死なない」
 何も理解していない凌平に、クチナワが安心させるように告げた。
 湖のある青い空間は、赤にまみれたクチナワ以外穏やかさを取り戻していた。空には星を一層輝かせたような何かが無秩序に散りばめられている。
 クチナワの言葉を最後に、沈黙が落ちた。誰も、何も言わない。
 片膝をつき、クチナワがゆっくりと立ち上がる。腕から落ちた血が地面に染みこんでいく。
「止血……」
「必要ない。すぐに止まる。止まらなくてもなんともないがな」
 行くぞ、と言ってクチナワが歩き出す。
 しかし俺は彼の向かった井戸の方を振り向いて驚いた。そこに井戸はなく、その代わり見覚えのあるドアが見えたからだ。あるのはドアだけで、後ろには何も見えない。
「見世物小屋だ……」
 おれが入らなかったやつ……消え入りそうな凌平の呟きが聞こえた。すぐそばにいる彼を見ると、凌平は遠くを見るように、惚けた顔つきでドアを眺めている。もしかしたら、俺と彼の見ているものは全く違うものなのかもしれない。
 クチナワと久納が俺たちを振り返りもせずドアへと近付く。
「御国、また飛び込むの?」
 頭の上から青の不安げな声が聞こえる。
「飛び込むって……」
「井戸。と、飛び込んでも俺、お前の頭に張り付いてるもんね。もうぶん投げないでよ」
「……ああ」
 頭に蛙の湿った感触。青がべったりと張り付いたのだろう。最近こいつのことは投げっぱなしだ。俺なりに安全でいてほしいと思っての行為だったが、こいつにとっては酷なことだったんだろう。

 どうやら、おれにはドアに見えているものはそれぞれ見え方が違うらしい。凌平には見世物小屋に見えているし、青には井戸に見えている。多分、おれと凌平だけが違うものを見ている、そんな気がする。
「行こう」
 凌平を促し、『井戸』に向けて歩き出す。緊張の面持ちで凌平も付いてきた。一歩一歩歩くごとに闇が生まれる。足を地面に付けると、そこが真っ暗になり景色が歪み、最後には『井戸』だけが闇の中に浮かび上がった。俺には一枚のドアに見えているのだが。

 やはり近づいてもドアはドアだった。このドアは色小屋から箱へと続く鍵小屋の扉。それはいくつもの南京錠でぐるぐるに施錠されている。もう元団長にもらった鍵なんてありはしない。
 闇の中、久納とクチナワは時間が止まったみたいにじっとしている。ふと、頭に何の感触もないことに気がつき心臓が跳ねる。青の姿がない。
 慌ててあたりを見回すと、いつの間にかクチナワの後方に人型になった青が立っていた。ほっとしたのも束の間、彼も時間が止まったように微動だにしていない。
「おかしなところだね、ここ」
 聞こえた声に、この空間には俺と凌平しか存在していないことを理解する。
「ああ、そうだな」
「夢はもっと曖昧なものがいいね」
「……うん」
 凌平がドアノブに手を掛ける。
「最後に、一つ良い?」
 そして振り向いて、俺をじっと見た。
「何?」
「お前、舜じゃないんでしょ」
「は……?」
「見た目も声も、話し方もそっくりだけど……」
 目を伏せ、わずかばかり思案した様子のあと、顔を上げて今度は皆を見回す。
「おれは、死んだんだよね」
 自らに言い聞かせるように彼は言った。
「だから、最期に一番会いたかったやつに会わせてくれたのかな」
 掛ける言葉がなかった。それは凌平を気遣ってではない。俺自身が彼の言葉にショックを受けたからだ。
 ――お前、舜じゃないんでしょ
 そうだとも、違うとも言えなかった。だって俺は『御国舜』だけど、ここに来てからの記憶しかないから。今ここにいる凌平と一緒にいた時の記憶は一切ないのだ。
 俺の存在が中途半端なことを、こいつは俺に突きつけてきた。
 白蛇様は俺に取り憑いていた時の記憶ならば見せられるといった。それは凌平と過ごした時の記憶なのだろう。だけど俺はそれを受け入れず、何度も断った。なぜなら怖かったからだ。俺はひとりぼっちに違いないと思っていたし、過去を知って傷つきたくなかったから。
 もしあの時俺が白蛇様から記憶を教えてもらっていたら、今俺の目の前で絶望を背負っている友達に掛ける言葉を持っていただろう。
 傷つきたくないがために逃げた結果、俺はこんな風に後悔する羽目に陥っている。
「ごめん」
 あと少しで俺の前でめそめそしている凌平はいなくなってしまうが、どうしてもこの凌平に謝りたかった。
 ドアノブを握りしめたまま凌平が顔を上げる。どこかぼんやりとした表情だ。
「俺、覚えてないんだよ」
「……何を?」
「全部。名前も、そこの黒い奴が教えてくれたんだ」
 凌平がクチナワを見る。すると、驚いたことに今まで人形のようだったクチナワに生気が宿る。腕の怪我や、衣服の乱れもなく、眼鏡も戻っている。
「……森でお前を探していた所を俺が拾ったんだ。迷っているくせに、自分よりもお前のことを心配していた」
 聞くやいなや凌平は俯いて黙り込んでしまった。俺と同じような背格好なのに、小さく見えた。できるならその肩に手を伸ばしたいが、俺にはその資格がない。過去から逃げた俺には彼を慰めることができない。知らぬ内に、クチナワはまた人形に戻っていた。腕の傷や衣服の乱れも復活している。
「……舜が謝る必要ない」
 凌平が呟く。
「いつも、謝らなきゃいけないのはおれの方だったから」
 凌平がドアの方を向き、ドアノブを握る手に力を込めた。
「おい、凌平」
「ごめんね、おれ、記憶無くしたお前にまで迷惑掛けてる」
「凌平」
 手を伸ばした。しかし凌平は俺の手をすり抜けるようにドアの向こうへと消えてしまった。
「おい!」
 慌てて彼を追って俺もドアをくぐる。
 真っ暗闇で、何も見えない。
「凌平!」
「誰?」
 一つ遅れて声が届く。声のした方を向くと途端に辺りが見えるようになった。明かりがついたわけではない。この変な小屋の性質のせいだ。
 そこには凌平がいた。彼は俺を見て、不思議そうに首を傾げる。
「御国……。ねえ、ここどこ? つうかさあ、おれ、久納とかクチナワたちと井戸歩いてた気がするんだけど」
 困ったように眉を垂れ下げながら凌平がじいっと俺を見る。下駄の音が背後でする。同時に、俺と凌平以外の人の気配も。
「あ。そういえば、元団長……。ちょっと思い出してきたかも」
 痛、と言って凌平がこめかみを抑え顔を顰める。
「でも、その場におれいたっけ……?」
 凌平は忘れてしまったのだ。さっきまで俺のことを『舜』と読んでいた凌平は確かに死んでしまった。

 その人をその人たらしめるものは一体なんだろう。少なくとも俺は、今俺の前にいる凌平と灯の道で以前の記憶を持った凌平は別人だと思う。器は凌平だけど、入っているものが違う。
「……変な場所じゃん、ここ。考えても疲れるだけだって。……行こう」
 凌平の手を掴み、前に進む。真っ暗闇だが迷わない。凌平の体温はしっかりと手に感じているし、後ろからクチナワや久納がついて来ているのもわかる。そして、俺が向かっている方向が白蛇様の井戸だということも知っている。小屋には意思があるから、ドアが見えなくなった時点で次の行き先は決まっている。もう、さっきまでの凌平のところへは戻れない。
 また灯の道に凌平と行って、凌平の記憶が戻ったとしてもさっきまでの凌平とは違う人物なのだ。

 白蛇様に記憶をもらおう。白蛇様に共有したい、と言われたのに突っぱねたのは俺だ。白蛇様だって本当は彼の祠にお菓子をあげる『舜』に会いたかったに違いない。こんな意気地なしで傷つく勇気のない俺なんかじゃない。