箱の中
綿のような肌触りの良いソファの上に、稲様と柊の入った竹筒が寝かされていた。時々ぼんやりと光るそれを白蛇様は優しい眼差しで眺めている。
「あいつも昔からやることが変わらない。壊したくないから閉じ込めるのだ」
ふふ、と白蛇様が笑う。
白蛇様は明らかに弱っていた。人を食わずにもう何日が経ったのだろう。こんなに早く憔悴するものなのだろうかと、やりきれない気持ちになる。
彼を囲むようにして、おれたちは地べたに座っている。クチナワと久納が肩を並べている光景は未だ見慣れないが、そんなふたりを見て白蛇様は満足気だった。
「団長には3日だと告げている」
クチナワは無表情を顔に貼り付けており、彼が何を考えているのか表情を見た限りではわからない。けれど、夢のような光景の向こうにある記憶から、彼が心を痛めながらこの場に座っていることはわかる。
「安心しろ。大丈夫だ。あいつはわがままだが、意外と優しい。殊に俺には心配になるほど甲斐甲斐しくしてくれる。今は拗ねているだけだろうな」
本当に、悩みなどないような笑顔を白蛇様がおれたちにくれる。
「その証拠にみな無事だろう? 本当に怒っていたら、死ねない相手を貫くのは腕なんかじゃない。もっと痛くて苦しいところは山ほどあるだろう。稲見にしても、本当にいらないのなら、筒ごと壊せばよいのだ」
俺は待つだけだ、と白蛇様が目を閉じる。けれど……と口を開いたのは久納だった。
「団長があなたに近づけば、それだけで体は砕けてしまいます。いくら意識しても、団長の力は今のあなたには毒だ」
「何かしら策を講じるだろう。伊達に長く生きていない。そのくらい考えられる頭、あいつにもあるさ」
はっはっは、と白蛇が心底楽しそうに笑う。
「あなたがそういうのなら、そうなんでしょうね」
一つ長い息を吐いて久納が立ち上がる。
「少々箱に行ってきます」
そうして彼はおれをちらりと見て歩き出した。
「おれも行く」
慌てて立ち上がり久納の後を追う。
来なくても良いよ、とどこか突き放すように言われ心臓に風が吹いた。
「怒ってんの? 勝手に抜けだしたから?」
声を掛けることができたのは、井戸を抜け色小屋を渡り、もうすっかり馴染んだクラヤミ廊下に来た時だった。
「怒っていない」
久納がおれの方なんて見ずに端的に答える。カランカラン鳴る下駄の音がクラヤミ廊下に反響する。必死に久納に付いていく。その内に、久納の部屋の前まで来た。
久納が彼の部屋へと消えるが、おれは続いて入ることができなかった。久納は明らかに怒っているし、きっとおれは彼を怒らせるような何かをしたのだ。久納にはずっと優しくされていて突き放されることなんてなかった。一気にここに来てからのことが蘇る。
人を捨て、甘い香りのする部屋に閉じ込められている時の幸福が思い出された。
久納の部屋の前で立ち尽くす。
記憶を欲してはいけなかったのだろうか。いや、違う。おれを大事にしてくれた久納に何も告げなかったことが悪いんだ。ずっと、おれは久納に何も言わなかった。自覚した好意を胸の内に隠しながら、おれは久納を元団長側の人間だと思い、信じていなかったのだ。
井戸に落ち、いつもの美麗な顔を崩して駆け寄ってきてくれた久納の姿を思い出す。
「ああ、もう!」
うんざりしたような声とともに腕を引かれた。わ、と短い悲鳴を上げて倒れこむ。
「何やってるんだ、君は! 俯いて、する必要のない反省でもしていたのかい?」
倒れこんだのは久納の上。半身を起こした彼にまたがる形でおれは支えられていた。至近距離で目と目が合う。どんなに近くで見ても彼の美しさには露程の粗もないが、おれが欲しいのは彼の美しさではない。
泣きそうになる。嫌われたくない。捨てられたくない。
「ごめん」
「何を謝っている? 記憶の欠片を探しに行ったことなら、もう君は謝ったじゃないか」
「全部だよ。おれ、あんたに何も言ってなかったから。箱掃除に来た御国と会ったことも、柊の所に連れて行ってもらったことも、青に協力したことも隠そうとした」
言うと、久納はいまさらか、と溜息を吐いた。
「怒っていないよ。……お前は覚えていないと思うが、井戸の外でクチナワが団長に、人を喰った白蛇にも、化け物の信仰に浸かりきった狐にも、血に塗れた自分にも穏やかな未来なんてない、と言ったけれど、それは俺にも当てはまる。皆が必死になっていた時、俺だけ我関せずで何も見ようとしなかったのだ。柊含め、お前たちが色々動いていたのは知っていた。だが、自ら動かない俺に怒る権利はなかった。……愉快に灯をやるとは思わなかったが」
だから、何も言わず閉じ込めたのか。しかも、彼はおれの意志を尊重してくれた。おれは久納との穏やかな空間を選んだのだ。それなのに裏切った。
「しかし……」
久納が言葉を切り、苦々しく髪をかきあげた。
「君は覚えていないと思うけどね。井戸の外で、君は『今』を忘れ、過去の君になった。当然のことだけど、君は俺を忘れてしまったんだよ。それが思った以上にショックで、腹立たしかった。それだけだ」
久納の口調が変わる。冷静さが欠けると、彼はどこか子供じみてしゃべるようになるのだ。久納と共に過ごす中でおれはこんなこともわかるようになった。
「……ねえ、おれ、思い出したんだ」
おれは弱い。久納がおれに優しいのを良いことに、彼の肩に額を付ける。久納の腕がおれの背中に回った。抱きしめられるのが心地よい。可能なら彼にもたらされる熱を箱に閉じ込めて、そこにずっとひきこもっていたい。
「何を?」
「舜……御国のこと」
「ああ。記憶の欠片が教えてくれたんだろう?」
「うん。おれ、すごく好きだった」
そうだろうね、と投げやりにも思える言い方で久納が言った。
久納はわかっていない。おれにとって、思い出すのがどんなことか。それはただ記憶が蘇ることじゃない。蘇った記憶が自分の中に馴染んで初めて思い出すといえる。さっき御国に手を引かれた時、おれは彼の手の温かさを確かな懐かしさを持って感じていた。
あれだけ身になじまなかった過去の記憶がいつの間にか馴染んでいた。おれと同じくらいのまだ華奢な背中にしっかりと過去の光景を重ねあわせることが出来た。
記憶の欠片はおれに舜の記憶しかもたらさなかった。けれど、おれに必要な過去は『御国舜』だけだった。舜がちゃんと体の中に入ってきて、ようやくおれは自分になれたのだ。
その上でおれは久納のことを考えた。
「……久納」
「なんだい?」
久納の肩から顔を離し、彼と正面から向き合う。彼の目は深い赤。地の底に存在しそうな赤だ。
何を言うのかは考えられなかった。おれにだけ優しい久納を確認したかったのかもしれないが、その確認方法がわからない。
「……随分ととろけるような瞳で見つめるんだね」
久納に表情はない。だけど、戸惑ったように囁く声は甘いものだった。舜に感じるものとは異なる種類の好意をおれは久納に抱いている。
「おれを、イギョウにして欲しい」
久納が息を呑む。
「君はもう人ではない……住人じゃないか」
「もう一度、イギョウにして欲しいんだ」
おれのいわんとするところが正しく彼に伝わっているだろうか。
空いている方の久納の手に後ろ髪を掴まれる。
――久納だけのおれになりたい
こう告げると、返事の代わりに彼の眼の色のように深いくちづけが落ちてきた。