狐と蛇
空には大きな白い月がぽっかりと浮かんでいた。
元団長は、湖のほとりにいた。彼の足元には二匹の狐が横たわっている。自ら瀕死の狐を連れてきたのか迷い込んだのかはわからなかったが、二匹は血に染まっているにもかかわらずどこか安らかな顔をしている。
元団長はそこで何をするわけでもなく黙って水面を見つめていた。井戸から現れたおれたちにもとっくに気が付いているはずだ。
静かな水面は、無表情で、揺れる波紋を眺める元団長を映している。神様も水に映るのか、と無意味なことを考える。
元団長は凛として立っていて、少しも悲しげなところなんてない。しかし、彼がまとっている空気は悲痛なものだった。見ていると泣きたくなってくる。なぜかはわからないが、もしかしたら彼の作ったこの空間自体が元団長の代わりに悲しんでいるのかもしれない。それがおれに、おれたちに伝わっているのだ。
「団長」
久納が一歩前に出る。元団長は水面からゆっくりと久納へ視線を変えた。
「久納か」
会話が途切れる。途切れる以前も、会話と呼べるものではなかったが。
元団長に3日前の気魄はなかった。相変わらず崇高な雰囲気をその身にまとっているが、今日は不思議と怖くない。神様にこんな表現はおかしいが、まるで憑き物が落ちたみたいだった。
「お前から話しかけたくせに、私に何も言えないのだな」
ふ、と元団長が笑う。切れ長の目が細くなり、口角が上がったそれは本当の笑顔のように思えた。
「まあ、いい」
元団長が湖に背を向ける。月を背負ったその姿は異形以外のなにものでもない。
「しかし、3日とは酷なことを言う。私にとっての3日は、お前たちにとっての瞬きほどの時間に過ぎない。それで考えろと言われても、どうすることもできなかった」
皆黙っていた。黙って元団長の言葉を求める。
「まばたきの間に、死にかけの狐を二匹見つけた」
元団長がかがみ、彼の足元に横たわっている狐を二匹抱き上げた。小さな狐はきっとまだ子供で、大人になれぬまま死んでしまうだろう。元団長の白い着物に真っ赤な模様ができる。
「私は生きていないから、死が何か、私にはわからない」
淡々と、元団長は話を続けた。
「死んでもなお此岸に留まり続けるものがいる。それは果たして死と呼べるのだろうか。死んだら本来は、もう二度と会えぬのではないか?」
死にかけの狐を、彼は慈しむように抱き寄せた。
「死んでも会えるのならば、何も問題なかった。しかし、白蛇がこのまま消えたらもう二度と言葉を交わすことはできなくなるだろう。……悲しいな、クチナワ」
死んだもののような元団長の視線にクチナワが息を呑む。
「ええ。……とても」
「私には、耐えられそうもない」
元団長が目を伏せ、穏やかに言った。
「御国に八つ当たりをしたところで、動き出した時計はもう止まらぬことはわかっていたのだ。お前の言うとおり、人を犠牲にし続けた私に穏やかな未来はない。仮に灯の器に魂を移せたとして、本体を失った白蛇は少しずつ自我を失っていっただろう。それでも私はあいつと共にずっと……」
言葉が途切れた。
「もうよそう」
そう言うと、団長は目を閉じたまま体を煙に包み、毛並みの美しい子狐へと変化した。口には、死にかけの狐を一匹咥えている。団長はとてとてと可愛らしく歩き、久納に咥えた狐を突き出した。久納が血で汚れるのも厭わずに子狐を抱き上げる。
「これだと白蛇に近づいても大丈夫だろう。今は見たとおり、人語を操れるだけのただの狐だ。……今ならお前でも私を簡単に殺せるぞ」
元団長が御国を見て皮肉げに笑う。
「別に、もう踏み潰したいとか思ってねえし……」
「踏み潰したかったのだな」
ふふ、と元団長が笑う。
「クチナワ、白蛇を連れて来てくれ。ただの狐である私が井戸に落ちたら死んでしまう」
何も返さず、クチナワが井戸に飛び込む。狐姿の団長は井戸の前で行儀よくお座りをして、クチナワと白蛇様を待つ。
おれたちは何も言わなかった。久納が悲痛な表情を浮かべじっと団長を見つめている。少し経ち、クチナワが誰かを抱え井戸から出てきた。
おれたちの前に一人で立ったその人は長身で、相も変わらず吹いて飛ぶような儚げな出で立ちだ。久納や元団長同様美しく、この世のものとは信じがたい程神聖な白の髪の毛を風に揺らしている。そして青白い顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
彼は井戸を囲むおれたちを時間をかけて慈しむように見回し、狐で視線を止めた。
「少し見ないうちに、だいぶ可愛らしくなった」
白蛇様が元団長の前でしゃがみ、その頭を撫でた。狐が気持ちよさそうに目を閉じる。幸福な光景だった。
「……なあ狐。気づかない内に、随分と空気がまずくなったな」
頭から離された白く大きな手を、元団長は名残惜しそうに見つめた。
「そうだろうか」
「ああ、吐きそうだ。狐。俺達はこんな場所を作りたかったのではないだろう」
「さあな。よく覚えていない」
「ボケるにはまだ早い」
「そんなこと言われたのは初めてだ」
「良かったな。この年になってもまだ初体験が出来るとは」
「お前は昔から意味がわからない」
おれたちを包む空気はなんだか湿り気を帯びているが、いつもより心地よい。
月に照らされた空は明るく、かつて昔話の絵本で見たような星の川が架かっていた。さっきまで夜は暗かったはずなのに、星の瞬きが闇様の青の一部を昼のように変える姿はひどく幻想的だ。
「行こうか」
白蛇が元団長を見下ろして囁く。その囁きは甘く優しい。元団長は伏目がちに小さく頷いた。おれが想像もできないほど長く一緒にいたのだ。神様が終わりを意識することは果たしてあったのだろうか。
白蛇の誘いは死の誘いだ。白蛇と共に生きるためには、元団長は力を捨て、終わりに向かわなければならない。ただの異形となるのか、ただの蛇と狐に戻ってしまうのか。しかし、今まで永遠とも取れるほど永い時間生きてきたふたりにとってはきっとあっけないほど早い終わりが待っている。
「クチナワ」
「なんだ」
「最後まで、面倒を見てやれなくて悪い」
白蛇様の言葉に、クチナワは鼻を鳴らした。
「そんなこと、初めから期待していない。俺は蛇神憑きだ。誰にも救えない。それより自分の心配をしろ。消えかかっているぞ」
「お前は、優しいな」
「それはない」
クチナワの言うとおり、白蛇様の体には変化が訪れていた。まるで砂の城が崩れるように、さらさらとした白い砂が白蛇様の体を少しずつ崩していっている。その砂は舞い上がり、久納が抱えた瀕死の子狐へと吸収されているように見える。
「俺は狐になってちゃんと歩けるだろうか。4足歩行は初めてだ」
「団長に教わればいいだろう」
「そうだなあ」
最期に満面の笑みを浮かべ、白蛇様は消えた。久納の腕の中の狐が白い光に包まれる。わずかな時間発光し、狐は元気に久納の腕から飛び降りた。二匹の子狐が並んでおれたちに向き合う。
それから、コン、と可愛らしく鳴き暗い森へと走り去っていった。
稲様と柊が筒から出てきたのは、その直後だった。