遅刻
無垢な寝顔を守ること。時間に縛り付けること。
どちらか一方と選ぶとしたらもちろん前者を選ぶ。その時ばかりは近い将来どちらがめんどうくさいことになるかなんて考えなかった。ただ純粋に無垢な寝顔を選んだのだ。
能登が登校してきたのは、2時間目が終わった時だった。
彼はクラスメイトどころか彼がたどってきた道にいたすべての生徒や教師たちの注目を集めながらすごい勢いで教室に入ってきた。そうして入るやいなや窓際の席でぼうっとしていた俺の前に立ち無表情で見下ろしてきた。よく関わるようになってから笑っているところばかり見てきたから、無表情な能登が怒っているような気がした。事実、起こさずに放置した俺に腹を立てているのだろう。なにせ6時に目覚ましをかけるほど早く起きようとしている能登をそのままにして来たのだ。めんどうくさがりだが多分それほど鈍くない俺は、彼の怒りがどこから来ているのかその理由を知っている。
わかっているからこそ、数時間前無垢な寝顔を守ったことを後悔していた。
クラスメイトたちはクラスの中で、その他の野次馬は教室の外から驚いたように俺達を見つめていた。
そりゃそうだ。今年度の生徒会と風紀委員は仲が悪いとされているんだ。俺だってみんなからは偉そうな俺様キャラだと思われているし、みなこの状況に興味津々だろう。
「……悪い」
水を打ったような静けさの中、能登が言う。何に対してかはわからないが、いずれにせよ多分能登は悪くない。
「俺の方じゃないか?」
どちらかというと、と加えつつ注目から逃れようと教室から出るため席を立ったところで能登に腕を掴まれる。いや、能登君わかってよ。この話、どういう道を辿ってどこに行き着くとしても人気のない所で話したほうが良いから。なんていうか、俺の今後のために。
(わかってください……!)
念じつつ能登の目を凝視すると、周りの生徒達が息を呑んだのがわかってしまった。や、違う。睨みをきかせたわけじゃなくて、思いよ伝われと念じたんです。しかし気付いた時には後の祭りで、目だけを教室の外に走らせてみれば一般生徒の中に不安げに俺達を見つめる風紀委員や生徒会役員の姿が紛れていた。
「……ごめん」
やっと冷静になったのか、能登も周りに目を遣り、無表情を崩して小さく詫びた。そして静かに自分の席へと戻っていったが、多分、周りの生徒たちは壮大な勘違いをしてしまっただろう。みんな不安やら好奇心やらが混ざり合った表情で俺と能登をちらちらと見ている。
教師が来る頃には廊下の見物客も散っていたが、それでもいたたまれなさは変わらない。俺もなんとなく席についてしまったが、座らずに生徒会室に逃げたら良かった。
後悔しながら予鈴を待っていると、一件のメッセージが届いた。
机の下でこっそりと開くと、送り人名のところに『能登君だよ☆』とあった。
なんとも言えない虚しさを覚えながら本文を読む。
『昨日福井くんが風呂に入ってる時に勝手に番号頂戴しました!さっきはごめんね!おれ寝起きすごい悪くて、今我に返ったよ!やっちゃった☆それもあっていつもは2時間かけて起きてたんだけど、昨日ちゃんと言っとけば良かったね~申し訳ない!また今日迎えに行くから、良かったら来てね!良かったらって社交辞令で、無理矢理にでも来てもらおうと思ってるけど( ゚ω^ )b返信カモン!』
一度読み、机にしまう。
「……」
内容はともかく、ちょっといらっとした。ちょうどよく予鈴が鳴ったため、返事はしない。案の定授業は全く頭に入ってこなかったが、先のやりとりを知っているからなのか、普段ほぼ全員に当てることで有名な教師にもかかわらず俺と能登に当てることはなかった。
9月に会長になってからあまり授業に出ていなかったが、今俺達の教室に充満している空気は決して良いものではない。緊張感と呼んでいいものが漂っている。全く気にしていないような生徒ももちろんいるが、多数の生徒は俺達のことが気になっているようだった。みなどこかそわそわし、ふとした時に視線を感じる。
堂々としていれば良いのだ。だって俺は「偉ぶっている生徒会長」だし、そもそも能登とは仲が悪いと思われている。
でも、もし好奇心旺盛で物おじしない生徒に何かを尋ねられたら俺はボロをだしてしまう。だって昨日能登が近寄ってきてくれた。抱きまくらがどうとか言ってたけど、部屋にも呼んでくれて、思いもよらないことがあったにせよ、まるで友達のようだと思った。
面倒くさいという思考の塊だったのに、能登に興味を持ってしまったのだ。この違いによって、俺は一週間前までの自分ではなくなってしまった。
授業が終了した瞬間、俺は周りの目も気にせず鞄に勉強道具を詰め込んで席を立った。
「行くんだ?」
教室から出る時、ドアのすぐ傍の席にいる能登が空気を読まずに声を掛けてくる。
「生徒会室」
「ふーん」
「じゃあ……」
どうして視線って感じられるんだろう。見えないなにかがみんなの目から出ているとしか思えなかった。
人間はめんどうくさい生き物で、結構カガクでは説明のつかない力を備えていると思う。昔アニメとか漫画を見ていて、『思いよとどけー!』なんて空に手を伸ばすシーンをばかばかしく思っていたが、本当に届くことがあるんじゃないかと思ってしまう。
こんなことを思うほど四方八方から視線が突き刺さってきていた。
それから逃れたくて教室から出ようとした時、能登にさっきみたいにまた腕を掴まれた。俺達を見物している生徒から小さな声が上がった。
意味がわからずまじまじと掴まれた腕を眺める。節々が目立つ格好良い男の手が俺の腕に食い込み学ランに皺を作っている。
この黒い布に包まれた腕を男の手が掴んでいる光景はどちらかに分類すれば健全なもの。だけど俺は眼に映る画像ではなく、腕を掴まれているという状況だけに着目してしまった。昨日知った能登の手の熱さを思い出してしまったのだ。ひとりでに熱くなる顔に赤くなっていたらどうしようと焦りを覚える。
「なあ、昼ってどこで食うの?」
「え?」
「昼。生徒会室?」
爛れた昨夜の妄想に取り憑かれていて一瞬能登が何を言ったのかわからなかった。周囲に気を配ることも忘れ素が出る。
「ま、まだ考えてない……」
ふ、と能登が笑った。言葉がつっかえてまた焦る。俺様キャラはすらすら喋るという固定観念があったからだ。焦りを顔に出さずに取り繕おうとして、ふいに言いようもない感情に襲われた。
それは良い感情ではない。馬鹿馬鹿しいと思った。必死で偉そうに振舞おうとする自分が滑稽に思えた。
今まで面倒くさくて考えることを放棄し続けて、元会長の言うことをただひたすら信じていた。なめられたら襲われる――そう教えてもらって、何も考えずになめられないようにして来たが、本当にそれがめんどうくさくない方法だったのだろうか。
仲の良い友人すらできず寂しいと思い悩むこの状況こそめんどうくさい気もする。
「じゃあ、風紀室で待ってる」
話したいことがある、と能登は続けた。俺は取り繕うこともせず、声を出さずに頷いて今度こそ教室を後にした。