体育の授業
大神と別れ教室へ入ると、すでに能登がいた。彼は予鈴ギリギリに入ってきた俺を見つけるとにこにこしながら手招いた。
その笑顔を認めた何人かが変に口元を歪めて能登と俺を交互に見る。
最近能登と噂になっているのだ。それを俺は彼がにこにこして俺を呼ぶのがすべての原因だと思っている。能登の笑顔は爽やかとなんかえろいのが合わさっていて、その顔を直視したものはもれなくさっき変に口元を歪めたやつらのような顔になる。
ほぅ、と感嘆の声をあげたい、ムラムラする、恥ずかしさを隠したい。こんな感情に彼らは襲われているのではないだろうか。
俺はといえば噂になっても特にどうでも良かった。初めは俺のコミュ障がバレたらどうしようとか、気が弱い所がバレたら襲われるかもしれないとか色々な不安を覚えていたが、今のところ積極的に俺に話しかけてくるものもいなければ襲ってくるやつもいない。
バレていないか、自分で思っていたよりも俺は魅力がなかったかだが、おそらく後者だろう。少し前まではあったかもしれないがきっと今は能登に俺が持っていた人気が行ったのだ。
頑張っているものに人気が出る。これは当たり前のことに思える。
だから俺は気にすることもなく素直に能登の元へと向かう。能登の席は廊下側の一番後ろ。
「何?」
俺は近づき、ロッカーに寄りかかった。僅かな時間でも楽して立っていたいのだ。
「大神と何話してたのか聞いてみようかなあって思ってさ」
「……別に」
見てたのか。この注意力があるから風紀委員長をしっかりと出来ているのかもしれない。
悪いことは話していないが、わざわざあんなとこにふたりきりになったのだから大神にとっては聞かれたくない話だったのだろう。大したことじゃないけど……とは言っていたけれど。
「大神が言っていいって言うなら話すけど。大した話じゃないし。聞いてみてよ」
「ああそう? ……いや、別に良いや」
「ふーん。変なの」
会話が終わる。すぐに自分の席に戻れば良かったのになんだかタイミングを逃してしまった。
「一時間目、体育だね」
するべき世間話も持っていないから、微妙なタイミングだけど戻ろうと腰を浮かしかけた時能登が口を開く。
「体育……」
「百メートルの計測らしいよ。一時間目からはやめてほしいよねー」
「うん。そうだね」
なんでもない話題を能登はなんでもないようにしてくれた。確かに、俺も思っていたことだ。なるほど、と思った。世間話は、なんでもないけれど思ったことを口に出せば良いのか。
そう思った瞬間に予鈴が鳴った。
無駄にステキなクラウチングスタートの台が用意されている。俺は腕を振るヨーイドン形式で構わないのに、スタート位置につくだけで格好いいポーズができるクラウチングスタートでみな走り出さなければいけないのだ。
「じゃあ、次―。位置につけー」
きちんと整備されたグラウンドに俺達は6列で並んでいる。身長的に俺は真ん中より少し前くらい。体育の授業は面倒くさがりの俺基準で考えるとすべての授業の中でも1、2を争うくらい面倒くさい。
雰囲気だけはゆるい体育教師の深谷が俺達に向けて言う。彼は今年から俺達の学年を受け持つようになったのだが、たとえ生徒会であってもテストは必ず受けさせる。授業中でなくとも放課後や休日にテストをさせるからたちが悪い。やる気のない教師たちばかりいるのに、こいつは頑張っていると思う。俺にとってはありがたくないが。
スタート位置に3人の生徒が並んだ。俺の出番は彼らの次だ。
深谷が弾の出ないピストル(名前は知らない)を空高く掲げて音を撃つ。100メートル先には計測係の眼鏡君が走者に目を光らせていた。
音が鳴ると3人の走者が一斉に前へと飛び出していく。どんなに素行が悪くても、音が鳴るとみんな飛び出すものらしい。
十数秒後、彼らの姿は小さな人形ほどに小さくなった。
「それじゃ次ー」
深谷の声に俺も立つ。
「お。福井、今日はいるんだな」
「……最近真面目で……」
「そうだな。話題に上がってる」
嬉しくない。
俺のレーンは真ん中だ。ちらちらと両隣を見ながら見よう見まねでクラウチングスタートのようなポーズを取る。さっき後ろから見ていたけど、笛の音で尻を上げ、銃声で逃げるように飛び出せばいいのだろう。
ピ、と深谷が笛を吹く。俺、尻を上げる。数秒の時間を置き、銃声が鼓膜に刺さる。俺、頑張って走り出す。
予想していたことだが、すぐに走る少年たちの背中を追うことになった。俺は足が遅いのだ。会長だからってなんでもできるとは限らない。勉強はサボるためにテスト前は頑張るからなんとかなっているが、俺は足も遅いし絵も下手だ。持続的な努力が必要なものはできない。
70メートルくらいで己の体力の限界を感じた。
100メートル走は短距離だと言われているが、決めつけないで欲しい。俺にとっては十分な長距離だから。
全力で走った道のりを歩いて戻る。とても意味のない行為だと思うが、学校は忍耐を学ぶ場。価値を求めちゃいけない。それに、意味のある行為でさえ俺には無価値に思えてしまう。どうせ人間なんて最後は消えてなくなるのだから、それまでどんな人生を歩んだって同じこと。
息が切れていた。苦しいし、足が熱い。
だからこそこんなにも厭世的な気持ちになっているのだろう。
また銃声が弾け、駆ける足音が響き出す。
みんなが並んでいる所に戻る間に数回それが繰り返された。
「随分ゆっくり帰ってきたね」
列の後方に行くと、まだ出番の来ない能登に話しかけられた。彼は後ろから二番目の列にいた。走り終わった生徒たちは出番を待つ生徒たちの周りで思うままに座っている。
俺は話しかけられたから仕方なく能登の隣に座った。
「疲れたから」
「面倒くさがって力抜いて走ったんじゃねーの?」
「全力だよ、あれが」
面倒くさがりの足が速いわけない。面倒くさがらずに日頃からもっと足を動かしていれば俺だってもっと足が速いはずなのだ。面倒くさがって日々いかに動かずに生活できるか考えている結果がこれだ。
「まさか、今までも本気だったとか言う気? みんな、手抜いてると思ってるよ」
「俺が運動、できると思うか」
「そつなくこなしそうな顔してるけどね」
「足をどうやったら速く動かせるかわからない。わかりたくもない」
「追いかけられたらどうすんの」
「追いかけられたことねえし」
「森のくまさん的なさあ。ちょっとは想像してよ」
「諦めるんじゃねえの、俺」
「諦めそうだけどさあ……」
能登が呆れる。徐々に彼の出番が近づいてきていた。グラウンドは騒々しかった。あまり素行が良くない学校だが、その騒々しさは少年たちに似合いの、瑞々しく健康的な騒々しさだった。
「……俺も少年なんだよなあ」
「はあ? 福井くん、いきなりどうしたの。じじいになった?」
「気持ちに若さがないっつーか、なんで俺って面倒くさがりなんだろう」
「ダメだよ、間違っても自己否定に走っちゃ。それについて悩むのはアイデンティティの喪失に繋がる」
「……そこまで?」
能登は俺の反応を受けて真剣な表情からからかい混じりのそれに変えると、軽やかに立ち上がった。
「走ってくる」
速いんだろうな、と思いながら手を振って見送る。それから俺は数十秒後に能登を迎えることになるが、まあ、速かった。足は交互に繰り出されているはずなのに絶えず地面に乗っているように見えた。それでも陸上部に敵わないのだから驚いてしまう。
「走ってきた」
能登の息はすでに整っている。彼にとっては100メートルなんかほんの短い距離なのだろうか。同じ人間とは思えない。
頭がある。それは首を橋として胴体と繋がっており胴体からは足と手が伸びている。顔には目がふたつと鼻、口などがある。頭には脳みそが入っていて物を考えることができる。同じはずなのに全く違う。
全く違って良かった。俺みたいのばかりだったら、俺は孤独だ。自分のことは別に好きじゃないから。俺は俺だと自分のことを受け入れているけれど、好きか嫌いかで言えばあまり好きではない。俺と付き合うのは面倒くさいと思う。
「何? ぼうっとして」
帰ってきた能登が体育座りをしている俺を見下ろしている。顔は笑顔だ。急にこんな俺に笑いかけてくれる能登の神経がわからなくなった。どうしてこいつはあの時俺に引かれるかと思ったとこわごわと言って来たのか。嫌われたくなかったのだろうか。俺に?みんなが言うから顔はほかよりも良いかもしれないが、それだけで嫌われたくないと思うか?わからなかった。
能登といるのは面倒臭い。考える事がたくさんあって、いつか壊れてしまいそうだ。
「……体育は疲れる」
「ああ。そう? 普段運動してないからだよ」
能登は小さく声を立てて笑い、また俺の隣に座る。ちょうど最後の組の計測が終わったところだ。教師がチャイムが鳴るまでグランドを走れと俺達に命令した。
絶望を抱いて立ち上がる。百メートルでも長距離なのに、授業が終わるまでゆっくりでも走るなんてありえない。
「さ、行こうか福井くん」
「ああ……」
「一緒に走ろうよ。喋ってると時間早く過ぎるって」
「……ああ、そうかもね」
だけど走りながらしゃべるとか、そんな高度な技俺は持ってない。
クラスメイトたちはだるいだの文句を言いつつも、ちゃんと走り出していく。
サボらず授業に出た瞬間からこうなると決まっていたのだ。運命のようなもの。覚悟を、決めないと。
授業終了まであと二十分……。
最低な気分だが、同時にこんな日常をなんだか愛おしく思った。