早寝記録

駆け引き

 廊下に出た能登はもういつもの能登に戻っていた。
 二人で並び、ゆっくりとした足取りで寮の食堂を目指す。
 生徒会室のある棟から出ると、途端に生徒たちの声が耳に入ってくるようになった。学内は広く、楽しい場所はないが集まって体を動かしたり喋ったり、そういう場所には事欠かない。
 外にいる生徒たちは、俺と能登を見つけると、珍しいものを発見したようにちらちらと観察してくるが、最近はそれにも大分慣れた。能登が見られることを全く気にしないから、それが移ってしまったのかもしれない。
「いやあ、見られちゃったね」
 能登が振り向いて見上げた先には生徒会室がある。今頃その中では北上が俺がやった仕事の確認作業をしてくれているだろう。
「ああ、うん」
「学校はやっぱり危険だな」
「うん」
 そりゃあ、危険だ。学校のどこにも自分専用の空間はなく、つまり、どこであっても誰かが入ってくる可能性はゼロではない。
 視界に映る生徒たちの誰もが、不躾にじいっと俺達を見ていることに気がついた。それを能登に知らせようと能登を見上げると、生徒たち以上に彼が俺を凝視していて、彼らの不躾な視線の理由がわかった。
「何、どうしたの?」
「いや、何考えてんのかって思って」
「特に、何も。能登くんのほうが様子がおかしいんだけど」
「ええー。何も考えてなかったの? つうか、俺でさえちょっとどきどきしてるよ」
「なんで?」
「えー。なんでって聞く? え、あれ? 福井くんって羞恥心とかない感じだっけ……」
 能登が首をかしげる。
「羞恥心ってことは、さっきのこと? 考えても仕方ねえし、北上だし、まあ、良くないけど、いいかなって」
 素直に言うと、えー、という能登の不満げな声が返ってきた。
「確かにあいつはチクるタイプじゃねえけどさー、それよりもなんか俺、福井くんのこと更に心配になってきたよ」
「心配?」
「なんでも、まあいいかで済ませちゃダメだよ。めんどくさいからって、危ないやつにのこのこ付いてっちゃダメだし、ほら、あれだよ。単刀直入に言えば、尻出さないでよ」
「話飛んだ気するんだけど。それに、俺だってほいほいと出さねえよ」
「俺が言うのもなんなんだけど、初めの時、割とほいほい……な感じだったし」
 能登がぽりぽりと頬をかく。
「初めの時って、能登くんが俺の足引っ掛けて転ばせて襲ってきたあの時のこと言ってんの?」
「うっ」
 改めて言葉にしたら結構な破壊力だ。しかも能登は風紀委員長。こういうことが起きたときに取り締まる側の立場なのに。
「まあ、俺も最初から全く抵抗しなかったし、積極的に気持ち良くなってたけど」
「ああ、えろかった……」
「あれから、耳触ったら興奮するようになったよ。能登くんが気付かせてくれたおかげで」
 試しに自分の耳を触り、皮肉たっぷりに笑って見上げてみると、能登がぎょっとした表情を浮かべたじろいだ。能登のその顔がおもしろく、つい笑ってしまう。
「けど、ほんと能登くんに心配してもらわなくても大丈夫だって。俺、殴られない限り抵抗するし」
「……襲われそうになったら呼んで。そのために電話充電しておいてね」
「実際のところ、襲ってくるのなんて能登くんくらいだと思うけど」
「だったら良いんだけどさあ。友達としては、自分のこと棚に上げて言えばなんかすっげえ心配で」
「ほんと、能登くんだけは言えないと思うわ」
 襲われた相手に心配されている状況がおかしく、また思わず笑ってしまう。
「なんて朗らかな笑顔……」
 俺を見た能登が溜め息を吐く。
「福井くんが本当はこんなんだって、ますます誰にもばれちゃいけない気がしてきた」
「でももう遅い。生徒会のみんながいなくなって、取り繕う余裕なかったし。俺がアヒージョにご満悦な写真も校内新聞に出ちゃったし」
 数日前の校内新聞を思い出す。能登と食堂に行ったときに初めて出会ったアヒージョとのツーショットが、俺の満面の笑みとともに載ったのだ。嬉しそうにエビを能登の口に運んでいるところまで押さえられていた。生徒会のみんなが見たら発狂するレベルのギャップだったと思う。本当に、みんなが学校に来られなくて良かった。
 しかし、そのせいで俺が今まで頑張って築き上げてきたイメージが崩壊してしまったのも事実だ。忙しすぎて壊れているだけだという意見も中にはあるが、校内新聞の一件があってから偉そうにするのはやめた。
「確かにあれは偉そうな会長の威厳がまったくなかったけど……天使が人間になって、初めておいしい食べ物を食べたかのような愛おしすぎる写真で、俺も新聞もらって切り抜いたけど……」
「能登くん、たまに気持ち悪い」
「しょうがねえよ、あれは。でも俺に向けられた……いや、料理か……。俺だけが見れるはずだったあの顔がさあ、全校生徒に行き渡るのってすげえやな感じ」
「……そういえば、俺の顔好きなんだっけ」
「ん? ああ、好きだよ」
 能登はそれまでのわざとらしさを消して、俺の方を見て口元だけで笑った。
 なんとなく含みのあるような表情。
 男の俺でも静かなトーンで放たれた「好きだよ」のひとことに勘違いしそうになるんだから、こいつは地元に帰ったときに一体何人の女の子に希望と絶望を与えているのだろう。
 普段俺に接してくれるときの柔らかさはわざとだと思うことがある。北上とか大神とか、他の生徒たちから聞く能登は俺が知っている彼よりもずっと激しい性格をしている。
 わざとだからって、俺が感じている能登の柔らかさが嘘とはならないけど、能登の計算の解になったような気がすることもある。しかしそれを俺は嫌だと思っていなくて、もしも能登が俺を自由に動かしたいなら、その通りにしてほしいと思う。ペットでも植えられた花でも、俺はなんだっていいのだ。
「格好いいのに綺麗で可愛いとかさあ、俺、初めて福井くんを見た時、これ以上の人に死ぬまで出会わないだろうなあって思ったよ。女でも、男でも」
「可愛くないと思うけどな。それはあんまり言われたことないし。最近は能登くんだけだよ」
 複雑な胸の中に意識を向けるのは面倒くさい。半ば思い込むようにしてそれから目を背け、感情の波を消す。
「あれ? 前は、誰か言ってる人いたんだ。昨日は俺だけーって言ってたのにさあ」
「……会長とか、前生徒会の人たちは言ってた。あの人たちのことだから、馬鹿にして言ってたんだよ」
「かなり可愛がられてたんだっけ?」
「あれを可愛がるって呼ぶのかは知らねえけど、ずっと補佐は付けられてた」
「抱きまくらになってたとか?」
 考えるより前に感情がやってきた。誇るべき貞操観念など無いが、こうもあっさりと言われると腹が立つ。いや、これは後付けの理由。能登には言ってほしくなかった、無意識のところで真っ先にこう感じたのだろう。だから腹が立ってしまった。
「想像に任せる」
 腹は立ったが、実際俺が能登だったら、「福井くん」のことをかなりエロくて淫乱で尻の軽いやつだと思う。思い返せば、初めての時の俺の無抵抗加減はひどかった。能登にやるつもりは全く無かっただろうに、俺があまりにも抵抗しないから彼も引っ込みがつかなくなって、気付いたらその気になっていたのだろう。能登の単なる戯れを、言い逃れができない関係に持っていったのは俺の方。もしかしたら、あの日だけを見たら寧ろ能登の方が被害者かもしれない。
「悪かったよ」
 なぜか能登に謝られた。気になって見上げると、困ったような表情を浮かべている能登と目が合った。
「なに謝ってんの?」
「そんな悲しそうな顔するとは思ってなかった」
「俺が? 別に、なんとも思ってねえよ。俺が能登君でも、同じように思うだろうし」
 少し昔のことを思い出す。
「だって、俺頭も特によくねえし、要領も悪いし、体力もないし、自分で言うのもなんだけど取り柄があるとしたら本当に顔くらいで、そんな奴がこんなとこで頭も顔も何もかもいい人達に囲われてたら、誰だってそう思う。実際そう言われてたし」
「だから、んなつもりじゃねえって。からかっただけ……。悪かったよ」
「気にしないで」
 言うことがなくなってしまった。それでも肩を並べ、同じ速度で歩いて行く。人付き合いを避けてきたから、今の俺と能登の状態にどんな言葉が当てはめられるのかわからない。個人的には、「ケンカ」ではない。気まずさはあるが、それは俺よりも能登の方が感じているみたいだ。気にしなくてもいいのに、それを伝えるすべを俺は知らない。いくら言葉で気にするなと言ったってどうしようもないのだから。
(めんど……)
 とばかり言うのは卑怯か。能登以外ならいいけど、彼は今俺のことで気が病んでいるようなのに、それを面倒だと言って自分だけ逃れるのは、能登へ好意を覚えているからこそしてはいけないことだろう。
「大丈夫だよ。俺、気にしてない」
「なんかなー。してるよねー……。でも引きずって話し続けるのも俺すげえやなやつだし」
「俺も悪かったと思う」
「え? どこが?」
「これから探すよ」
「探してもねえよ」
「からかわれても、それに気づけないのは良くない」
「いや、それ良くなくないから。全然。そもそも、人をからかう奴にろくな奴はいねえよ。これ覚えといて。そういうやつって大抵悪意なく人を傷つけるから。……そ、そう、今の俺のように」
 意外としつこい。そして意外と卑屈だ。こうなってしまったときのセオリーはわからないけど、まあ良いか。
「大丈夫だって」
「いやあ」
「俺、今ので全く能登くんのこと嫌いになってねえし。好きだよ」
「えー……」
「友達」
「あ」
 黒髪の間からわずかに覗く耳の縁が赤らんでいた。
 意外としつこい。意外と卑屈。それから、意外とかわいい。
 もしかしたら、さっきの仕返しになったかもしれない。俺の顔を好きだと言ったときの能登。おそらくあれも少しはからかいの意味があった。今のに他意はなかったけれど、能登の反応を見たらほんのすこしだけすっきりした。
 視線を前に戻す。いつのまにか食堂のすぐそばまで来ていたようで、生徒の数も多くなっていた。
 彼らはほとんどの場合俺達から距離を取るから今の会話を聞かれる心配はなかったけれど、もし俺達のことを見ていた生徒がいたらケンカをしていたのかと勘違いしたかもしれない。
「俺、今日は天丼食べることに決めてる」
「あ、ああ。そっか。……俺は、雑炊かなあ」
「それだけ? お腹すくよ」
「胸いっぱいだからさー」
 そう言ってへらりと笑った能登はもういつもの能登に戻っていた。
 視界の隅に、こちらに駆けてくる数人の生徒たちが映る。そちらに目を向けると、まだ成長期の兆しが見えない、中学生のような可愛らしい少年たちがいた。
「こんにちは!」
 彼らは俺達の前で立ち止まり元気に挨拶すると、笑顔のまま走り去っていった。
「こんにちはー」
「わ……」
 足を止め、能登と彼らの後ろ姿を見送る。
「小せえ声」
 能登が茶化すように肩を小突いてきて、俺は格好悪くもよろけてしまった。