早寝記録

七つの子

 屋上には心地よい風が吹いている。
 七月のさわやかな暑さは嫌いじゃないが、今の俺にはその風を受けて気持ち良さを感じる余裕はなかった。
 部屋に戻って何もかも忘れて寝てしまいたかったが、寮に帰れば同室者がいるし、こんな気分で、こんなひどい顔で人と会いたくない。
 だから屋上に来た。放課後は一般生徒の立ち入りが禁じられ、鍵がかけられている。屋上は風紀が管理しているから放課後にここに来られるのは風紀しかいない。
 だから、俺は屋上に来た。一人になりたかった。

 管理塔という小さな小屋のコンクリの壁に背中を預けて、さっきの転校生のように膝を抱えてうなだれる。
 ひどく泣きたい気分だったが、泣きはしない。泣くのは惨めだ。格好悪い。
 日本男児なのだから、自分にさえ涙をみせちゃいけない。
 そもそも、泣く理由だってないじゃないか。
 無理矢理心を持ち上げる。
 大丈夫だと思い込む。
 夕暮れの橙に全神経を集中させ、なんてきれいなんだと感動する。

 きっと会長は今頃皆取を慰めているだろう。皆取にとって俺は悪者だし、何があったのか会長にも言うはずだ。
 俺には会長と仲が良いという自負みたいなものはある。
 周りから見ても俺と会長が付き合っているという噂まで流れるくらいには仲が良さそうなんだろうとも思う。
 けど、俺は友達としても可愛い性格をしていないから、たぶん会長に見放されるのも早い。

「もう、どうでもいいかも」

 膝に埋めていた顔を上げて空を見る。夕焼けの中、群れをなして飛んでいる鳥が見えた。
 空を自由に飛べる鳥になりたい、なんて言うやつがいるが、鳥だって一生懸命羽を動かさないと飛べないじゃないか。
 俺は鳥に乗りたい。
 元来面倒くさがりなのだ。面倒くさいから、という理由で家に帰らず三年になるくらい。
 だから、今の状況は非常にいただけない。
 会長とつるんで敵を増やして、七面倒くさい転校生に手を出して――
 こんなはずじゃなかった。面倒ごとをできるだけ回避して、適当に生きて適当に死んでいこうと思っていたのに。

 鳥もいなくなり、また膝に顔を埋める。
 そのとき、遠くでがちゃがちゃと鍵をいじる音がした。
 でも鍵をかけてあるし、入って来られるのは風紀だけ。もう心配されるようなひどい顔ではないはずだから、誰か来たとしてもかまわない。
 それに、人捜しでもない限り隅っこのここには誰も来ない。屋上は広いのだ。

「ほんとにいた」

 会長が来ない限り、俺は大丈夫だ。

「……」
「……木戸?」

 会長が来ても、俺は大丈夫だ。
 よくわからない感情を携えて、ゆっくりと顔を上げる。
 夕日を背負った美形は、なんて絵になるのでしょう、なんてあほなナレーションを心の中でつけながら会長を見る。
 会長ははじめうっすらと眉根を寄せていたが、俺が顔を上げきると少しだけほっとしたように口元を緩め、俺と目線が同じになるようにしゃがんだ。

「なんだよ。びーびー泣いてるかと思った」
「泣きませんよ。なんで俺が泣くんですか。意味わかんないし」
「だってさっき泣きそうな顔してたじゃん」
「錯覚です。疲れてるんじゃないですか? ていうかなんでいるんですか」
「泣きそうなやつが行くのは屋上って相場が決まってるんだよ」
「泣きそうじゃないし、それより鍵はどうしたんですか」
「鍵くらい俺が手をかざせば自動的にふわっと開く」
「がちゃがちゃいってたけど」

 あれほど落ち込んでいたっていうのにちっとも変わらぬ憎まれ口をたたく自分にうんざりする。
 だけど会長は気にする様子もなく小さく笑って俺の頭に手を置いた。温かい。
 その温かさになんだか包まれている感じがして、さっきまで俺を押しつぶそうとしてきた寂しさだとかがしっぽを巻いて逃げていくような気がした。

「……何するんですか。それより、皆取はどうしたんですか」
「あいつは常磐に任せてきた」
「なんで来てるんですか」
「からかおうと思って」

 そういう会長は嘘つきだ。だって心配が顔に出てた。さっきはあからさまにほっとしてたし、バレバレなんだよ、ばか。
 俺の頭に置いた会長の手がゆっくりと動き出す。まるで眠りを誘うような手つきだ。

「これ、眠くなります」
「寝れば良いんじゃねえの?」
「だめでしょ……」
「連れ帰ってやるよ」
「置いてって良いです」
「そこまで意地悪じゃねえよ、俺」

 あんたは優しいからな、と言葉に出さずに思う。
 会長は疲れていてもいつでも話を聞いてくれるし、別に嬉しくないけど撫でてくれる。そういえば、今まで会長に邪険に扱われたことがない。
 出会ったときも風紀に入ったばかりの下っ端の俺の名前を覚えていたし、佐伯君だって知っていた。会長の親衛隊は数が多いのに、きっと親衛隊の名前もみんなちゃんと覚えているのだろう。
 いくら名前を覚えるのが得意だからって、覚えようとしない親衛隊持ちのやつのほうが圧倒的に多いのに。
 それに会長は「俺の家来だからな」とかなんとかいいつつも彼らの気持ちを慮って、彼らの集会に参加したりもしてる。
 だからか会長の親衛隊にぐちぐち言われたことはあっても実際に手を出されたことはない。

「あきれてますか」
「何に?」
「俺に」
「木戸に? 何で?」
「最近情けないし、取り乱してばっかりだし、自分勝手だし、転校生を殴った」

 ふいと会長から顔を逸らして言う。言ったあとに口がとがるのはばつが悪いから。
 だって、こんな関係は友達じゃなくてまるで親と小さい子どもだ。最悪。
 子供みたいな態度の俺に会長は手を動かすのを止め、俺の顔に手を添えてぐいと自分の方に向かせた。
 諦め悪く今度は視線を逸らす。

「別にあきれてねえよ」
「大人しくなった転校生を殴るとか、最低じゃないですか」
「その前に三発もいれられてんじゃん。木戸は悪くない。むしろ甘い」
「けど、そのあと落ち着いたし、考えてみれば皆取は被害者だ」
「お前だってなんもしてねえのに殴られたから、おあいこだよ。つうか皆取の方が悪い」
「なんで? だって、あいつ悪いことしてねえのにいじめられてたんだよ」
「郷に入っては郷に従えってあるだろ」
「なんで俺ばっかりかばうんだよ!」
「だって木戸悪くねえし」

 会長はそう言った後、「悪くてもかばうかもしれないけど」ととても甘い顔で笑った。
 からかわれているのかなんなのか知らないが、その言葉が今の俺にとってはすごく嬉しくて、思わず視界がぼやける。
 それが悔しくて歯を食いしばって耐える。

「なあ」
「なんですか」

 会長は俺の顔を固定していた手を一つ俺の首に当てて引き寄せた。
 ごつんという鈍い音をたて額と額がぶつかった。
 衝撃と少しの痛みに目をぎゅっと瞑る。
 次に目を開けたとき、とてつもない至近距離に会長の顔があって、どっと自分の顔に熱が集中したのを感じた。
 近さに慌て、目を見瞠る。
 会長は、驚くほど真剣なまじめな顔でじっと俺を見ている。
 ごくりと会長ののどが鳴った気がした。

「……木戸、俺……ムラムラしてるかも。お前に」

 そして、場の空気も読まず、真剣な顔をして言い放つ。

「ばっ! ばっかじゃないんですか! いや、あほだろ、意味わかんねえし! 俺もう行くからじゃあねさよならばかやろう!」

 かっと赤くなった顔をさらに赤らめて会長を思いっきり突き飛ばし、さっき皆取を殴ったときよりも力強く突き飛ばし、一回踏んづけて走って逃げる。
 後ろから「いてーよ」なんて気の抜けた声が聞こえてきたが、もう知らん。
 緊張して損した。感動して損……はしてないけど、今日一日をトータルとして考えると損をした。

 俺は走って走って風紀室へと戻った。
 奥の部屋にはまだ省吾がいて、パソコンをいじりながら空いた手で書類に判子を押している。
 俺の登場に気づいた省吾がさっきよりも疲れた顔で振り向くと「長えトイレだったな。うんこか?」なんてのんきに言ってくるものだから、興奮状態だった俺の気持ちは一気に萎えた。

 でも省吾の言葉で気がついた。

「してくんの忘れた! 俺、トイレ!」

 気とその他をすっきりさせようと思って行ったトイレでそのどちらもができてなかった。
 気づいた途端にしたくなる。
 だから俺は「いってらっしゃい」と苦笑する省吾にありがとうとごめんねを言って慌てて風紀室を出た。

 廊下を風を切って走る。
 今度はちゃんと風紀御用達の近いトイレに行こう。
 今日はもう、何事もないように。