早寝記録

金槌の苦悩

 プール横第三グラウンドの壇上でブラスバンド部が壮大な音楽を奏でている。
 七月のよく晴れた朝、盛大なファンファーレとともに『うほっ男だらけの水泳大会』が開会した。

 ブラバン部の目に涙が浮かんでいるのは俺の気のせいではないだろう。
 彼らは吹奏楽部との熾烈な争いに勝利し、見事ファンファーレの演奏を勝ち取ったのだ。

 整列している生徒の中にも涙を拭う姿がある。おそらくは吹奏楽部だ。
 そんな良い雰囲気の中、俺は陽気なファンファーレをひどく陰鬱な気分で聴いている。

 俺が出場するのは水中棒倒しだけだが、競技が終わったとき果たして俺の意識はあるだろうか……そう考えるとどんどん気分が沈んでいく。浮力が低下する。きっともう浮かべない。

「恭弥大丈夫?」
「え? ああ、大丈夫です……ありがとうございます」

 宮田さんが小声で俺を気遣い、心配そうに緩く微笑んだ。
 俺は今日、普段の見回りでも組むことの多い宮田さんと一緒に見回りをすることになった。
 本当は競技をしながら1人で行動するのが水泳大会での風紀委員のセオリーらしいが、宮田さんは俺のカナヅチっぷりを心配して一緒にどう? と俺の負担を軽減するために誘ってくれたのだ。
 やさしすぎる。俺も宮田さんのような人になりたい。

(……無理だろうな)

 そんなありえない夢に儚くも思いを馳せつつ顔を上げると、壇上では感動的なブラスバンド部の演奏が終わりを迎えようとしていた。最後の音がぴたりと合い、心地よい余韻を残した。生徒たちにも彼らの感激が伝わったのか、第三グラウンドは暖かい拍手に包まれている。

 俺と宮田さんは壇上の左後方に立ち、空気のように生徒たちの動向を観察した。
 これからあほかと思うほど人気がある生徒会役員の挨拶が始まるのだ。
 右後方では生徒会と体育委員会委員長らがパイプイスに座っている。

 ブラスバンド部が満足した様子で一礼し、壇上をあとにした。

 途端に湧き上がる怒号のような歓声。

「一カ月で質が変わったね」

 宮田さんが歓声の中で囁く。

「……タチの方々にも好かれ出したようですよ」

 悲鳴の中、いつものにやにやを消した会長が中央に立った。
 みんなと同じ、あまりオシャレとはいえないジャージに身を包んでいるが格好良い。

 そういえば会長と仲良くなかった時は俺様な遊び人だと思っていたし、にやにやしているイメージなんてなかった。
 もしかしたら生徒たちの会長イメージは、前の俺同様、俺様とか遊び人とかクールとかそういうものなのだろうか。
 そうだとしたら信じられない。過去の自分も信じられない。
 会長に対する先入観を外したら、外から見ても会長は十分安全で真面目で結構ボーっとした普通のいいやつだということがわかるだろう。
 人は悪に憧れるっていうから、本来会長の持ってるバカさ加減をもっと前面に押し出したらもしかしたら人気が落ちるかもしれない。友達は増えそうだけど。

 会長に普通の友達を――と願う俺だから、本当ならこの気付きを会長に教えればいいんだろうけど、多分教えないな、と思う。

 俺は会長から離れるつもりだが、『竜宮ラブ』最終巻が発売するまでは離れないし、会長が好きだということを自覚した今も、くっつこうとしてくる会長に対して思っていたよりも我慢できる。つらくない。

 だったら俺は宮田さんとか会長のようないいやつじゃないからまだ離れてやらない。

「どうも。会長の進藤です」

 そんなことを考えていると、会長がすこし低めの柔らかい声でクールに話し始めた。
 口調は普段の会長とは違ってなんだかそっけないけど、注意して聞いていると、彼は自分勝手に話しをせず、間を十分に取ったりしながら歓声とかぶるのを避けたり、周りに配慮しているのがわかる。

「水泳大会が終わったら夏休みが始まるけど、だからといって羽目を外しすぎないように」

 会長が言葉を切るたび女みたいな黄色い声が上がる。低い声はあまり聞こえないことから、タチ集団はちゃんと話を聞くタイプらしい。

「じゃあ全力で、でもケガしないようにがんばってください」

 無難な挨拶を終えた会長はマイクのスイッチを一度切ったが、何か思い出したのかまたすぐに入れた。

「あと、今日は俺風紀に護衛頼んでるから、ムラっときても襲わないでください」

 会長は至極真面目な顔でそう言うと、小さくお辞儀をして後方の元の位置へと戻った――かと思いきや役員たちの後ろを通り抜けて俺と宮田さんのいる方向に向かって来る。そんな会長を不思議に思いつつ見つめていると、会長は俺の腕を取り、後方の階段から壇の裏に俺を連れて行った。

 状況が掴めず宮田さんを見たら、宮田さんは何も言わず手を振ってくれている。

 壇上では会長のすぐ後に現れた鬼のような化け物と名高い体育委員会委員長――福原さんが水泳大会における諸注意等を行っているため、会長の行動に気がついた生徒たちも騒ぐことができない。
 鬼のような化け物――今改めて考えてみたら、福原さんはただの「鬼」という認識なのか。人間ですらない。
 まあ、福原さんは髪も染めず装飾品もつけず、男らしい顔をしていて格好いい上に真面目で風紀にも貢献してくれるから、俺は好きだけど――。

「何考えてんの。……なーんか名残惜しそうにステージ見てんな」
「いやあ……無難な挨拶が最後の襲わないでね! 星! みたいなので台無しだと思って」

 ステージ裏で聞いてきた会長に別につかなくてもいい嘘をつく。

「俺そんなきゃぴってた?」
「いいえ、格好良かったっすよ」

 会長は俺が福原さんを気に入っていようが気にするはずもないのに、俺は変に取り繕っちゃって、悔しくて恥ずかしくてわけのわからない惨めさに襲われそうになったから、意味もなくほめてみた。
 それを受けて会長がすこし嬉しそうな顔をした――気がする。
 ただ、会長にはいつものにやにやした笑みが復活していた。

「まあ、俺だからな。たとえきゃぴきゃぴ口調になってもかっこ……いや、俺ならかわいくもなれるな」
「……つうか護衛とか聞いてないんですけど」
「あれ? 聞いてない? 最近俺の純ケツを狙う輩が増えたから今日は木戸が護衛してくれるって、宮田が」
「純ケツって……」
「うまいだろ。純潔と尻をかけたんだよ」

 あまりのくだらなさに呆れまなこで会長を見ると、会長が愉快気に笑った。

「競技中に何かあっても俺助けられませんよ」
「なんで?」
「泳げないから。水も好きじゃないんです。潜ったり水かけられたりしたらパニックに陥ります。……温泉は好きだけど」
「じゃあ俺が護衛してやるよ」
「なんかおかしくないっすか、それ」
「いいじゃん何でも。俺宣言したしさ、これで今日は堂々と一緒にいれるな」
「……この前のこと覚えてたんですか」

 今週の火曜の放課後の話だ。「SP木戸」と冗談交じりで提案してきた会長に「からまれそうだけど、俺が護衛に付けたら堂々と一緒にいれますね」とかなんとか答えたのを思い出す。

 会長は橘さんに掛け合ってくると言って出ていったが、その途中で生徒会顧問の千田(ちだ)先生に捕まり仕事を頼まれてそのまま帰って来なかった。

 それから何日もその話についてしてこなかったから、会長にとってはやはり冗談で、どうでもいいことだったのだと自分の中で完結していたが、そうでもなかったらしい。

「あれから何度も橘に掛け合ったけど『ムリ』の一点張りでよ。宮田が橘を説得してくれてようやく今日念願叶ったんだよ。とりあえず今日だけだけど。橘も宮田には甘いよな」
「はあ」
「ここからちょっとずつでも俺を木戸が護衛してるっていう認識を広められたら学校内でも寮でも堂々と一緒にいれるし、さぶりみなるこうか? あれ狙って頑張ってこうぜ」
「サブリミナル……違うと思うけど」
「頑張ってこ」
「……はい」
「よし!」

 つっこみたいことはあったが、頑張ろうと子どもみたいに笑う会長に押し通されてしまった。
 ……のはただの見栄で、押し通されてしまったように見せかけて、俺は自分の意志でちゃんと返事をしたのだ。

 この前離れようと決意したときからその決意をはじめ考えまでもブレッブレだ。人間こんなにぶれられるものなのかと自分のことながら変に感心していまうくらいブレている。

 会長は俺に満足そうな笑顔を向けている。
 日本人には珍しい彼の灰色の瞳には、不機嫌そうに眉根を寄せた俺が映っていた。

(……まあ、いいか)

 あれこれ考え悩むのにも飽きたし、ブレてもいいやと思考を転換させる。
 このあとは俺にとっての黄泉の切符、死の競技――その名も水中棒倒しが待っているが、なんだか楽しくなってきた。

 会長の瞳の中の俺の表情が緩んだ。


 ――水泳大会が始まる。