柑橘系
古くも新しくもないマンションの3階。1階が安いから1階にしようと思ったが口うるさい保護者に1階は危ないからと勝手に却下された。その勢いたるや不動産の人も苦笑いをするばかりで、たぶん、いや絶対ゲイだと思われた。
俺のその口のうるさい保護者に今帰ったと連絡をすると、職場から出るときに言えとなんか知らないけど怒られた。どうせ住んでるところも近いし、3分もしたら来るだろうに。
あくびをした後伸びをして疲れを取ろうとしてみる。体の至る所がぱきぱきとなり、もう若くないのかもと思う。まあ、はたちが十分若いことは理解してるけど。ていうか、一番良いときじゃないか? それなのに一日の半分以上働いて、生涯連れ添う人も決めて、なんか、もう人生半分くらいは終わってる気がする。
そんなことを考えていると、がちゃりとドアが開く音のあとすぐに先輩が現れた。理由がわからないが、相変わらず美形な顔をしかめて両手に買い物袋を下げている。
「お疲れ綾音ちゃん。どうしたの、随分不機嫌そうじゃん」
「俺、言ったよなあ」
「何を?」
「帰ってきたら鍵締めろっつってんじゃん! 治安あんま良くねえんだから!」
「あんたが来るから開けといたんだよ」
実際は忘れただけだけど少し怖いから嘘を吐く。
「忘れんなよ! その気のゆるみが大惨事に」
「もう、わかったよ。そんなに言うなら一緒に住めばいいじゃん。どうせ綾音ちゃんの方が早く帰ってくること多いし。それなら鍵だって心配ない」
「一緒に住むのはまだ」
「待ち合わせできねえから?」
「付き合ってるっていったら待ち合わせだろ」
「待ち合わせ場所、家から1分のコンビニじゃん」
「気分だよ。一緒に住んだらなんかけっ」
「けっ?」
けっと言ったまま顔を赤らめて止まった先輩を見上げる。何を買ってきたのか買い物袋も重そうだし早く座ればいいのに。
「座れば」
言って、クッションを足下に投げてやる。
ふん、と負け惜しみのように言ってから先輩がそこに腰を下ろした。
「けっと言えばけつちんだよねえ。なんか俺、橘さん思い出すわ」
「思い出になるほど会ったの前じゃねえじゃん」
「先週?」
「何、先週会ったの?」
「うん。結構店に来てくれるんだよ。宮田さんと」
「宮田とか。まあ、それなら良いけど」
「何々? まさか嫉妬ですか?」
「木戸……お前今どんな顔してるかわかってるか?」
「憎たらしい顔?」
笑ってみると、先輩は今度はため息を吐いて買い物袋からジュースを二本取り出した。オレンジの絵が付いた派手なパッケージ。
「飲め」
「何?」
「酒」
「酒?」
「今日誕生日じゃねえか。やっとはたち。俺、高校生の頃からはたちになったら絶対酒飲ませるって決めてたんだよ。初めてだろ、木戸」
少し恥ずかしそうに言った先輩にときめくとともにズキンと胸が痛む。
「なんだよ、その間……」
どう反応しようかと考えている一瞬で先輩は嫌な想像をしたらしく顔を曇らせた。
「ご、ごめん!」
はぐらかすべきかとも思ったが、こういうことで嘘はいけないと思い直し両手をあわせて頭を下げる。
「ごめんってなんだよ。木戸、まさか……」
「誤解、違うって!」
「何が違うんだよ!」
「今日、バイト先であんたの兄ちゃんに作ってもらったんだよ。先輩、俺と酒のむの楽しみにしてること知ってたし、ほんと少ししか飲んでない。けど、誕生日祝いにって和音さんが酒作ってくれたら飲むでしょ! あんたの顔が出てこないわけじゃなかったけど、おいしく飲むでしょ!」
「しかもおいしく飲んだのかよ! 和音に初めて捧げただけでも俺は!」
「その言い方ちょっときもち」
「悪いとか言うなよどっち悪いか心に聞けよ、俺が何年楽しみにしてたと思うんだよ」
「……4年?」
「正解。心の中で、時に口に出しはたちになったら酒を飲もうと約束してきたと思う」
「は、はじめにとは言ってねえじゃん」
「俺は木戸の初めてと終わりを全部ほしいんだよ。知ってんだろ、ふつうに」
「いやあ、情熱的なことで」
不覚にもかなり嬉しいが、素直じゃない俺はひねくれてしまう。本当は俺も俺もと近寄りたいのに。
「……つうか、そもそも何で和音がお前の誕生日知ってんの」
「軽くね、世間話のつもりで俺今日誕生日なんですよーなんかくださーいって言ったんですよね。そうしたらさあ、あんたの兄ちゃんクールな感じなのに結構ロマンチックで、その場でさりげなく俺をイメージした酒を作ってくれたんだよ! 柑橘系だった……!」
「なんかすげー嬉しそうなんだけど。木戸、ときめいてねえ?」
「いや、あれはときめくって! って、あ」
思い出しながら言ってまずいと気づき先輩をみれば、すっかり不機嫌になった姿が目に入る。ときめきはしても、好きなのは綾音ちゃんだけなのに、それだけは100%自信を持って良いのに、何年経ってもすぐに不安がる。
「大丈夫だって、安心してよ。ちゃんと、好きだよ」
恥ずかしさで死ねるなら今だ。どんな反応するかなと思ったが、先輩は鳩が豆鉄砲をくらったような、まるで汚れのないびっくり顔を披露してくれた。
「よ、喜ばねえぞ。はぐらかす時、優しくなるのは昔からだ」
びっくり顔は披露してくれたが、それでも今のはかちんと来た。はぐらかすってことは嘘って思ってんじゃねえのか。もしそうなら今日はベッドは別だ。床で寝させて背中を痛めつける。
俺の不機嫌な空気を感じ取ったのか、先輩が目を逸らして静かに「ごめん」と呟く。
別に誕生日が特別な日だなんて思っていないが、一応今日は俺の誕生日なのに、なんかさっぱり祝われている気がしない。会長の兄ちゃんの方が俺を祝ってた。ことあるごとにおめでとうって呟いて来てたし。そういえば、おめでとうって言われてない。はあ、と溜息をつく。綾音ちゃんが俺と酒を飲む日を心待ちにしていたことは知っていた。酔うのかな、ざるかなとわくわくしていた姿はまあ、そこそこ可愛かった。
「謝ったから別に良いけど」
「ごめんって」
「別に良いって。俺もちょっと悪いし」
「……木戸は悪くねえだろ。俺が悪い」
「なんで落ち込んでんの? あんた、今日が何の日か忘れたの? 俺、祝ってもらいたいとかは思ってねえけど、今日くらいは気分が良いまま終わらせたい」
「そうだな。悪かったよ」
先輩がしゅんとする。学校にいる時は感じなかったが、卒業して私服でいつも会うようになってから、先輩は綾音ちゃんになった。もともと4ヶ月しか生まれた日も変わらないし、結構俺と同レベルのところもあるから一緒にいて年の差を感じない。
綾音ちゃんがなくしたものは先輩の威厳。
どうやらこの男は架空の世界のような男子校から外の世界に来て、俺が綾音ちゃんを好きじゃなくなるんじゃないかと心配していたようなのだ。そんなことはありえないのに、信用されていない気がして少しショックだった。
でも、ずっと好きだなんて未来のことを言葉で言っても無駄だ。俺はそれを綾音ちゃんをずっと好きなことを以て証明しなければいけない。きっとそのうち気づくだろう。俺が今でも片思いでもしているかのように先輩に恋い焦がれていること。
「先輩、酒」
酒は浮き世を忘れられると言う。
浮き世を忘れられるくらいならきっと今の俺が火傷しそうなこの熱も忘れられるんじゃないかと思った。
先輩は机においた酒はそのままに、大量の酒の中から初心者向けと思われる缶チューハイを渡してくれた。みると、ヨーグルト系の酒だ。ごそごそとしていたから敢えて選んだのだろう。俺は初めにテーブルに置いた柑橘系の酒でもよかったのに。
和音さんに対抗しても良かったのに。
先輩がくれたものなら、100円にも満たない缶チューハイであろうと最高においしい。