後ろ向きな木戸①
バスの窓から見えるのは、のどかな田園風景。このあとしばらくすると、徐々に建物が増え、何度かの休憩を挟み、高層ビルだらけの町に着く。そこから電車に乗り換えて、またしばらく揺られてやっと目的地に到着する。
この畑は序盤も序盤。空というルートもあるようだが、俺はまだ人が空を飛ぶなんて思えない。空は人間の領域ではない。だから多分死ぬ。
道中長いが、ゲームをしたり本を読んだりする気分にはなれなかった。何も考えずに時間を潰すにはちょうど良い道具だが、今の俺は、時間を潰すことよりもやるべきことがある。現実を見ても握りつぶされないように、心を鍛えておかないと。そう思って、頭をシートに付けて目を閉じた。
「……やべー」
思わずつぶやいた言葉は誰にも聞こえなかっただろうか。
バスの窓から見えるのは、現実離れした高層ビル群。俺の日常には全く馴染みのない風景。
寝てしまったのだ。目をつぶって一瞬のできごとだった。俺の脇を、大きなリュックやバッグを持った人たちが通り過ぎていく。寝ぼけた頭を何度か叩き、俺も座席の上にあげたリュックを取り、そそくさと背負って知らない人たちに続いて下車する。
不良に間違われないように、ミキちゃんに聞きながら生きてきた中で一番たくさん服を買ったが、どんなものでも俺は優等生には見えなかった。Tシャツにジーンズはまんま不良にいそうだし、細身のロングパンツになんとなくおしゃれな感じがするシャツを合わせたらずるいことをしそうな不良感が漂った。ジャケットも同様だ。古着によくありそうなゆるい雰囲気の服はミキちゃんの受けが良かったが、無傷で帰ってこられない気がしたのでやめた。ハーフパンツは履きたくないから却下した。結局ネイビーとか書いてた半端な丈のパンツと、適当なTシャツに白いシャツを羽織ってみたが、ミキちゃんに着せたらイケメン風になったこの格好も、俺が着るとなんだか悪いことをしていそうな雰囲気が漂う始末。
まあいいや、と諦めてこうして都会にたどり着いたのだが、迷ってしまって夕方の電車になった挙句、何回か危ないバイトを紹介されそうになった。
目的の町に着いた時にはくたくたになっていた。
すでに夜の帳が下り、外灯の明かりが無いとちゃんと歩けないだろう。何度か来たことのある街だが、その時は一人じゃなかったし、少し目指した地区も違う。人気のない夜に恐怖はあったが、夜風が気持ち良かったからいくつか前のバス停で降り、歩くことにした。海沿いの道を歩く。遠く、湾曲した海岸の向こう側に光が密集しているところがある。地方都市の繁華街には不良や恐ろしいやつら、欲を持て余している人たちが集うというが、同じ道の先に続いているとは思えないほど今俺の歩いている地域とは雰囲気が違った。全くさわやかさの無い波の音を聞きながら、とぼとぼと歩く。
日中は暑くてシャツを脱いでいたが、歩いているうちに心地よかった夜風に体を冷やされて、一旦リュックを地面においてシャツを羽織った。ここは一年の半分くらいが冬だと聞いたことがある。ここ――先輩の町は、とにかく冬が長い。夏は過ごしやすいと言っていたが、暑さに慣れている身からしたらここの夏は少し寒い。
リュックを背負い直して、なんとなく足が進まずに堤防を乗り越えてテトラポットの上に飛び降りた。真っ黒い海だ。漁船の光が遠くに見える。また、波の立っている所々が不気味に光っていた。ポケットから電話を取り出してからテトラポットの上に座る。
大学生は忙しいのかな。
だけど、もう夜。みんな、晩御飯も食べ終わってゆっくりしている時間帯。飲み会とか、合コンとか、たくさんあるだろう。知識は友達が話す兄弟から聞いた話とか、漫画やネットしかないが、とにかく大学生は夜が「楽しい」印象。俺は多分ついていけないけど。
先輩が卒業してからもう5ヶ月。俺が会いに来なければ会うことができなくなった。来い来いと言ってくれるけれど、今まで一度も来たことがない。忙しいと言って避けてきた。
ぼうっと海を眺める。星は見えない。
今回だって、来ることは告げていない。本当は、ゴールデンウィークに入る前日、思い立って学校が終わってそのまま来ようとしたことがある。机の中に勉強道具をすべて置いて、寮にも寄らずに外出許可を得て町に降りてきた、その時は、この町まで来られずに、「トカイ」に降り立ったところでそのまま引き返してしまった。駅にたくさんいた大学生と思しき人々から感じた輝きに怖くなってしまったから。
もしかしたら、綾音ちゃんもすごく楽しんでいるかもしれない。いや、そのほうが良いんだけど、俺がいなくてもきっと楽しいんだろうな、と思ったら会うのが怖くなった。幸せそうな姿を見るのが嫌だった。かと言って、つらそうだったり楽しくなさそうでも嫌だけど。
帰ろうかな。
ここまで来て、という思いはあるけれど、大学生の綾音ちゃんに会うのが怖い。学生服を着る権利がなくなった先輩。生まれたのなんて4ヶ月しか違わないのに、ひとりで勝手に大人になってしまった気がする、数カ月の差が恨めしい。同じ年で卒業してからもずっと一緒にいられたらこのように悩むこともなかっただろう。悩む暇なんて離れてないと生まれないものだ。一緒にいたら悩む暇など無いくらい相手しか見えないから。
だけど、俺がもっと早く生まれたら多分ずっと一人ぼっちで、小学生でも中学生でも友達ができないままこじらせて、先輩と付き合うまで行かなかっただろう。小学校を卒業するまで仲良くしてくれた友達の顔が頭に浮かぶ。親友と呼べる、俺と一緒にいてくれた彼がいたから俺は中学生で離れても一人にはなりたくなくて、必死で人と仲良くしようとがんばれた。
みんな、結構俺を過大評価してる。俺は周りに恵まれたから一人ぼっちじゃないだけで、本来なら人に嫌われる性格だとずっと思っている。
先輩がもっと遅く生まれたら良かったんだ。先輩と仲が良いのは橘さんだけど、橘さんには宮田さんがいるから大丈夫だ。なんて、しようのないことを考える。
ひとりで大きな溜め息を吐いて、立ち上がった。沈んだ気分とは別にぽんぽんとテトラポットを伝い、砂浜に降りる。柔らかい砂に足が沈む感覚が新鮮だ。海にはあまり来たことがないから。バランスを取りながら海の方へと近づいていく。段々鼓動が大きくなってくる。暗い海と、厳しい波の音に緊張感が高まる。気づけば、足が沈む感覚はすでに消え、砂は海水で濡れていた。波が来るのが怖くて濡れていないところまで後ずさるが、それでもテトラポットに座っていたときと比べるとかなり大きく波の音が聞こえている。
「わ」
その時、手に持っていた電話が震えた。俺に電話を掛けてくる人は増えたけど、それでもなぜか綾音ちゃんだと思った。あいつはたまに勘が鋭い。ゴールデンウィークの時は騙せたけど、引き返したバスに乗っている時に今みたいに電話がかかってきた。僅かな時間画面に表示された名前を見つめ、電話に出る。
「どうしたんですか」
無愛想に応じると、機嫌が良さそうな声が返ってきた。
『つれねえなあ! お前はいつもさぁ』
「あんたは楽しそうだ。未成年なのに酒でも飲んでんの?」
『いや? ただなあ、最近木戸の悩んでそうな声聞くと安心して』
「ひどいんですけど」
『なあ、本当に夏休み来ねえの?』
「うん、う、わっ」
ひときわ大きな波が来た。ここまでは来ないとたかをくくっていたのに海水は無慈悲に靴の中に侵入し、俺の足をすっかり濡らしてしまった。
『……海?』
電話の向こうから懐疑的な声。どうしようかな。
「そうですよ」
『遊んでんの?』
「ひとりで?」
『ひとりなのかよ。あぶねえよ』
「もう帰ろうと思ってましたよ」
『どこに帰るんだよ』
「寮」
『つうか、海近くにねえじゃん』
「……あんたんとこの町の海だよ、俺いるの」
電話の向こうの相手が黙る。黙られるとは思ってなくて俺も次の言葉が出てこなかった。海から離れながら、またテトラポットに近づいていく。よじ登らなくても良いルートはあるだろうが、探すのも面倒だ。だけど、電話を耳に当てたまま登ることはできず、テトラポットの前に立ち尽くす。
『何しに来た……って、違う、いや、違わねえか。会いに来た、ってわけじゃねえんだろ。俺、聞いてねえし』
「一応会いに来た」
『なんでこんな時間に海にいるんだよ』
「電車に乗り遅れた。バスに乗ってたけど、ちょっと歩きたくなって降りたんですよ」
『迎えに行くから、なんか目印……ねえの?』
「遠くに、多分飲み屋とかがたくさんあるとこ見えますよ」
『目印なんかねえか……』
「ちょっと待ってて」
通話を切らさずにポケットに電話を入れる。テトラポットによじ登り、さっさと堤防を乗り越えて道路に出る。電話をまた取り出して耳に当てながら、目印を探すために走り出した。
『なあ、そこらへん何にもねえだろ。写真撮って送ってよ。それでだいたいわかるから』
減速し、息が切れるずっと前に諦める。
「ごめんね」
それだけ言って、通話を切り、今先輩が言ったように写真を撮るためにカメラを起動する。遠くから海の向こうの輝く町を画面内に収めていると、いきなりものすごい罪悪感に襲われた。罪悪感と呼んで良いものかどうかわからないけれど、先輩にも申し訳ないし、今の自分がとても惨めだと思った。喜々として会いに来ればいいのに、それか、黙って来るんだったらはじめから来なければ良いのに。中途半端すぎる。やっぱり俺は自分が嫌いだ。
一瞬電話が震える。先輩からのメッセージだ。『遅い』と書いてある。急いで写真を撮って、先輩に送る。正直なところ、先輩の新しい住所は引っ越しが決まった時に教えてもらったが、俺の地理処理能力では家の近くの地域までは来れても、正確な位置はわかっていない。
それにしても、先輩はどうやってくるのだろう。俺が知っている綾音ちゃんはほとんど学校の中だけだから、彼が「外」でどんな風に生活しているのかが全然わからない。まるで、制服を脱いだら他の世界の住人になってしまったようだ。
堤防に座り、今度は道路を眺める。道路の向こう側にはちらほらと住宅やアパートが見える。遠くに高いビルが建っているが、もしかしたらあれがずっと前に先輩が言っていた金持ちがたくさん住んでいる地区かもしれない。
15分くらいぼうっとしていた。車通りは、拓け方とは逆に少なくない。
「木戸!」
遠くから声がする。顔を上げて声の方向を向けば、自転車のライトが見えた。姿は見えないけれど、多分あれが先輩だ。段々と自転車が近づいてくるにつれて、先輩の姿が見えてくる。なんていうか、失礼な話、まさかの自転車移動だった。他に何があるのかと言われても、適当な答えは出てこないが。
数メートル手前で先輩が自転車から降りた。ママチャリがこんなに似合わない男はいないかも。
「久しぶり。元気でした?」
「久しぶり、じゃねえよ! 来ねえし、来たと思ったらこんなとこで一人でいるし連絡くれねえし、どうしたんだよ!」
「まさかの短髪黒髪でびっくりしてる。まるでさ、2年生に戻ったみたいだ。覚えてますか? 惚れた? って言って、深夜に俺の部屋に侵入してきたこと」
「覚えてるよ。つうか、俺の言ったこと完全無視じゃねえか」
先輩はこんな時間にも関わらず、なんだかおしゃれな服装をしていた。さすが、大学生。夜はこれからなのか。適当なことを考えてみてもやはり心は出会った頃に向く。まだ付き合うなんて考えたことも望んだこともなかった夏の初め。付き合っていなかったけれど、将来のことなんてなんにも考えていなかった分、あの頃がとてつもなく幸せな瞬間に思えた。必死であの頃の先輩と今の綾音ちゃんの相違点を探す。少しだけ身長が伸び、高身長といえるくらいになった。けれど、そんなのはどうでもいい。あ、黒髪短髪優等生スタイルになってからは外されていた耳に開いている穴に、ピアスが嵌められている。良かった、ここにいるのは昔の、高校生の先輩じゃない。これで短い再会の後の別れにも耐えられる。
「……ほんと、どうしたんだよ。ていうか木戸も、1年に戻ったみたいだ。格好は見慣れないけど、髪型が昔みたい。似合ってる」
「普通に……切るの面倒で伸びてるだけ」
「なあ、俺んち来るだろ。行こうぜ。木戸来ると思って、ベッドちゃんと大きめの買ったから安心しろ」
「うん」
「後ろ乗れよ。この時間なら二人乗りもばれねえよ」
「うん」
先輩が自転車にまたがる。俺も荷台に座った。行くぞ、と先輩が短く言って自転車が走り出す。初め重そうだったが、すぐにスピードに乗る。目の前にある先輩の背中は、このシチュエーションじゃないと見られないものだ。人気はないけれどれっきとした町中に、非常識な男子校で出会っておつきあいを始めた男ふたりが存在している。優しい非常識に囲まれた檻の中で育んだ関係が外に出てしまったことを実感してしまい、俺は不安から逃れるようにして先輩の背中に額を付けた。