後ろ向きな木戸②
木戸はすごくわかりやすく悩んでくれる。わかりやすい――悩んでいる内容はわからないことが多いが、あ、今なんか悩んでる、ということはすぐにわかる。他の奴らからは不機嫌そうに見えるらしいが、あからさまに困ったような、悲しそうな表情をするから。
今もそうだ。海から俺の家まで、彼は俺が漕ぐ自転車の荷台に座り、ずっと俺の背中にあたたかな頬を付けていた。普段なら珍しいだとか言って、俺の話を適当に流しきょろきょろと景色を眺めるようなやつだ。それが、ピタッとくっついてきていた。これは普通じゃない。
家に着いてからもどこか浮かない顔で一応俺の新しい家に感想は漏らすものの、心ここにあらずなのは見てわかった。
(あのまま帰るつもりだったのか)
俺が偶然電話をしなければ、彼はどうしていたのだろうか。大きな波が来なければ、風が吹かなければ、俺は木戸が外にいることに気づかなかったかもしれない。会いに来いよ、なんて、目と鼻の先にいる木戸に言っていたかも。腹の奥がずんと重くなる。自分、または木戸に対する静かな怒りだ。卒業してから5ヶ月。たった5ヶ月で俺は彼に海で独り悩ませるような男になってしまった。木戸も、俺に遠慮しているのか、近くまで来ているのに自分から言い出せないような気持ちの弱いやつになってしまった。
会いたくて仕方がなかったはずなのに、実際会ってみてやってきた感情は「不安」だ。
ずっと一緒にいたい思いは変わらずある。好きな気持ちも全然薄れない。だが、少し離れていただけで木戸にどう接すれば良いのか判断に迷うようになっている。何を考えているのか、同じ学校にいた頃は手に取るようにわかっていたことも、今では遠い。
(って考えてたって良いことねえか)
「木戸!」
「はい?」
リビングへの入り口に立って中を物色するように眺めていた木戸が、突然大きな声を上げた俺の方を怪訝そうな顔で振り向いた。
「まずは手洗おうぜ。そこに荷物投げて、ほら、来い」
「え? ああ、はい」
木戸は素直に俺に従った。本当に投げなくていいのに、彼は背負っていた荷物をリビングに向かってそっと投げたのだった。そうして、やりましたと言いたげにこっちに来て俺を見上げてくる。少しだけ、縮んだろうか。目線が前と違う。
(……ああ、俺がでかくなったのか)
どうでもいいなと思い、木戸の手を掴んでリビングの手前にある洗面所へと入る。そこは洗面所兼洗濯室兼脱衣所だ。俺は木戸に手を洗わせると、そのまま強引に服を脱がせにかかった。案の定木戸が狼狽して抵抗してくる。いきなりなにするんですか、ばか、だめだって、などと言いながらも、抵抗する力は弱い。男同士。体格は俺のほうが良いが、彼は橘に仕込まれたんだし、俺くらいすぐに床に押さえつける技は持っている。木戸は最後に弱々しく「だめだってぇ」と呟いておとなしくなった。
「風呂入ろう。俺、風呂入ろうと思ってさ、溜めてたんだよ」
「脱がせる前に言ってよ……」
「それもそうだな」
特に反省はせず、先に服を脱ぎ、ぬるい空気が漂う浴室に入る。狭いが、まあ大丈夫だろう。
木戸を気にせずシャワーからお湯を出し頭から被った。おずおずと入ってきた木戸が所在なく立ち尽くす。
「せっかくだから洗って」
「……届かないって」
「それもそうだな」
俺は笑って、手早く髪の毛を洗っていく。木戸はどうしているだろうか。多分、じっと見ているはずだ。そのままの流れで体を洗う。これも手早く済ませ、お湯を溜めていた浴槽に浸かる。ちょうどよい湯加減だ。
木戸は少し恨めしそうに俺を見てから、自分も体を洗い始めた。その様子を黙って見つめる。そういえば、風呂はあまり一緒に入ったことがない。寮が一緒だった頃は、特別一緒に風呂に入りたいとか、そんなことは思わなかった。入浴で数十分離れたところで寂しさが生まれることはなかったからだと思う。授業で離れても、どうせ寮に戻れば木戸がいると無意識に思っていたから、寂しさなんて感じることはなかった。卒業間近になってやっと実感が湧いたくらいだ。でも、実際に寂しさがやってきたのは離れてからだ。
学校に行っても、家に帰っても、どこに行ったって木戸はいない。それを思い知ったのはかなり早い時期。電話があるし、顔を見て話せる機械も今はたくさんある。自分でも馬鹿だと思うが、電話で話した後電話を触ってみても人間のぬくもりはないし、他の機械だってそうだ。俺の願いは、喋らなくてもいいから隣にいてほしいというものだということがはっきりわかった。
木戸がいなかった5ヶ月間に思いを馳せているうちに木戸がすべて洗い終わり、湯船に入ってきた。二人分の体積を受けて一気にお湯が溢れ出して行く。床に置いた洗面器が流れ出したお湯に浮かびふよふよと移動した。
「もったいねえ」
木戸が呟く。彼は俺の足に正座するような不自然な形で入ってきたが、すぐに窮屈だと悟ったのか、顔には出さないが、少し照れた様子で体勢を変えた。後ろから木戸を抱きしめることになり満足する。
「狭いし、ごつごつしてるでしょ、俺」
木戸がため息混じりに言った。
「でも満足してる」
「ほんと変だよ、あんたは」
「変じゃねえよ、ちっとも」
木戸の腹に手を回し、少し撫でてみる。木戸は身じろぎしたが拒否も抵抗もしなかった。さわさわと撫でていく。硬い腹、へそのあたり、それから段々と上に行けば平坦な胸がある。
「そ、そこ、さわってもなんもねえよ」
「あるだろ」
意外にも木戸は感度が良く、胸の先端をひっかくとそれだけで体がびくんと跳ねるのだ。左手で腹を触りながら右手で胸をいじってみる。下腹部に手を伸ばすと、木戸の息遣いが荒くなり、少し前に倒れた。
「や、やめろって」
「なんで?」
「や、るなら上がってから突っ込めば良いじゃん」
「触ってたっていいだろ」
「つまんないだろ、あんたが」
「楽しいよ」
「――っ、おれだけって、やだ」
ひどく必死な様子で木戸は言う。俺がもともと男が好きではないから、胸もなくゴツゴツしている自分の体を触られるのが嫌、こんなところだろう。
「前はんなこと言わなかったじゃねえか」
(やべー……)
多分いいところ。不安を取り除いてやるには絶好の機会を俺は作り出した。しかし、目の前が歪んだかと思うと、それほど短くはない時間視界が暗くなった。
「……のぼせた」
「え?」
木戸が振り向き、すぐに前を向いて湯船から上がる。
「ほら、掴まって。上がって冷やしましょう」
「ああ」
そうして伸ばされた手を掴もうと体を起こして腕を上げると、力強く引き上げられた。また暗くなるが、簡単に支えられる。
「だせえなあ……」
辛辣な言葉が聞こえたが、甘んじて受け止めた。
自分でできるのに、身体を拭かれ、下着と部屋着を着せられ、ベッドに寝かされ、団扇であおがれている。しかしそのおかげで、すぐに気持ち悪さも薄らいできた。
「悪いな……」
「別に、いいよ」
薄目を開けてみてみると、木戸はすでに部屋着に着替え、俺のベッドに腰掛けて、足を雑に組んでいた。今の時代でも、女がやるとはしたないと眉をひそめられそうな恰好。
湯船から引っ張り上げてくれた力強さ、支えられたときの安定感、今の姿。
木戸は男だ。一緒に寝るときは未だに下になってくれるが、所謂男女の恋愛で言う「彼女」の役割を彼が担っているのではない。俺は男と付き合っている。木戸は彼氏だし、俺もそう。だから、木戸が自分の体が男であることに後ろめたさを感じる必要はない。木戸が女でも俺はちっとも嬉しくない。
木戸があおぐのをやめ、立ち上がった。少しの間姿が消える。戻ってきた彼の手には水の入ったコップが握られていた。
「勝手に持ってきた。飲める?」
「ああ。もう良くなったから」
木戸から水を受取り、一気に流し込む。水が喉を通り、ひとかたまりとなって体の道を抜けていく。水の通ったところが快い冷たさに満たされた。もう世界が回ることもなく、頭もはっきりしている。
「……寝る? 俺今日疲れたから、もう眠れるよ」
俺からコップを受け取って、木戸が台所へと向かう。料理はあまりしないから、台所は狭い。物件を探している時に「キッチン」と呼べるような素敵なところもあったが、どうせ料理はしないし、同じような家賃なら部屋が広い方が良かった。木戸が来るかも――と言う考えも過ぎったが、どうせなら、いつかふたりで住む時にこだわりたいと思った。俺の将来の夢は誰にも邪魔されない場所に家を建てること。一階は店にして、2階を居住スペースにする。何かあっても生き延びれるように、地下室もほしい。
木戸はテーブルの上に置いていた照明のリモコンを手にして、ベッドに上がってきた。それから夏用の薄い布団を掛け、電気を消す。室内がふっと暗くなる。
「ねえ、なんで枕ふたつあるの。俺今日来るって言ってなかったのに」
「いつ来ても良いようにだよ」
「友達とか?」
「友達は入れない。まあ、橘とか兄弟は来るけど、床で寝てもらう」
「これだけベッドでかいと友達とも寝れるじゃん」
「嫌いなんだよ。人が近いのは」
矛盾するように布団の内側で木戸に向けて手を伸ばす。腰のあたりを掴んで引き寄せると、顔と顔がくっつきそうなほど近くなった。半身を起こし、二人分の枕をどかして床に投げる。木戸がそれを横目で見送っていた。
丁寧に掛けてくれた布団を剥いで、木戸にまたがる。何を考えているのか、彼はぼんやりと俺を見上げていた。
「何考えてんの?」
服の間から手を差し込み、肌を撫でながら尋ねる。眉根を寄せ、木戸が答えた。
「久しぶりに見たら……、やっぱ、顔がすげえなって」
滑らかな肌だ。鍛えているからか、腰は細く、全体的に引き締まっている。
「お、格好いいってことか!」
木戸は、うん……と暗い相槌をくれた。俺は木戸を確かめるように全身を触りながら考える。きっと、考えたほうがいいことだ。
木戸が落ち込んでいる理由。会いに来ているのに一人で海にいたのはなぜか。これは多分わかる。俺が高校生だった頃から、こいつはたまに女との浮気は仕方が無いと、全然仕方なくなさそうに言っていた。綾音ちゃんは男が好きなわけじゃないから、と投げやりに言うのだ。
俺達の学校は特殊だった。みんな特殊なことを知っていて、それを踏まえて身の振り方や楽しみ方を探していた。高校で付き合っていても、卒業して別れる奴らが多い。また、外に彼女がいるのに、学校では男と付き合っていたやつも結構いる。
(そりゃあ、不安になるか)
わかる気はしたが、俺は木戸が好きだということを自分で理解しているから、少しでも疑われると腹が立つ。普通の、少し治安が悪い地元に帰ってきて、周りは所謂「普通」のやつらばかりになった。堂々と彼氏がいることを言ってはいけないような場所に来てしまった。だけど俺は木戸が許すなら、どこの誰にだって木戸と付き合っていることを言える。そこに後ろめたさなんて微塵もない。誰になんと思われても構わない。だけど、木戸に疑われるのは耐えられない。
「いっ?」
頬に痛み。突然のことに驚いて木戸を見下ろすと、潤んだ目で俺を睨んでいた。
「ぼうっとしながらやってんじゃねえよ! ばかじゃねえの! どけ! 寝ろ! 抜いてくる!」
「悪い」
結構な時間ただ触られていただけの木戸は、思いの外気持ちよくなってしまったらしい。でも、まあ、そりゃ怒るか。
「話しかけても無反応だし怖えよ!」
「お前のこと考えてたんだよ」
「だとしても今することじゃねえだろ! そもそも俺は寝る気だったのに」
腹筋の力だけで起き上がろうとする木戸の肩を押しベッドに押さえつける。そして、そのまま口付けた。
「ふむっ」
木戸が何か喚いているが構わず顎を掴み舌を差し込む。人よりも尖った犬歯で噛まれないように、逃げる木戸のそれを追いかけて、ゆっくりと絡め取るようにすると段々と抵抗が弱くなってくる。
しばらくの間そうやって、一旦顔を離すと、木戸が意味わかんねぇ、と顔を赤くして呟いた。息は荒く、生意気に見られる釣り気味の瞳は潤んでいる。急激にやる気が湧いてきた。さっきまで真剣に考えていたのに、自分でも気づかないうちにその大切な思案はどこかへ飛んでいってしまった。
可愛い俺の恋人。初めて付き合えたのが木戸で、本当に良かったと思う。
木戸の細い腰を掴んで動くたび、腹のあたりの健康的な筋肉がひくひくと動く。宙に投げ出された足はゆらゆらと揺れており、首筋の汗が暗闇で光っていた。たまに出る掠れた声を色っぽいと感じた。
「なあ、」
声をかけると、そんな場合じゃないとでも言いたげに睨まれた。一度動くのを止め、繋がったまま覆いかぶさってみると、木戸が顔を歪めた。それから、何、と面倒くさそうに聞いてきた。
「俺、木戸のこと好きでいてもいいんだよな」
素直な気持ちをそのまま言葉にすると、木戸は虚を突かれたように目を見開き俺を見た。ほんの少しだが長い間、ただ見つめ合っていた。
「……会いたいって言われたら、すぐに来ることにする」
木戸が目を逸らし、上気した頬を隠せないままこれだけを言った。俺は彼の答えになんとなく満足したのだった。