早寝記録

あの夏の日のこと

 恭弥君がいなくなった穴を埋めるように、俺はベッドの上に座り枕を抱いていた。
 さっきから心臓がおかしい。どきどきしていて、そのたびに何かが失われていくような気がする。
 とはいえ、いきなり病気になったのではない。わかりたくはないが、俺は今自分がこうなってるきっかけを知っている。それもこれも、みんな恭弥君のせいだ。恭弥君が、宮田君が俺のことを好きだと言ったから、それから心臓が壊れてしまった。
 そうかもしれない、と思ったのではない。そうだったらいいなあと思ってしまった瞬間に、俺の心臓はおかしくなった。

 恭弥君は俺が宮田君を好きで、宮田君も俺のことを好きだと言ったが、それはありえない。
 宮田君が優しいのはみんなの前だけで、二人きりの時は厳しい。笑っても目は笑っていないし、いつも試すようなことを言ってくる。みんなにとって温かな宮田君は、おれにとっては冷めた人間なのだ。それなのに俺がこうなっている時には何も言わずそばにいてくれる。

 宮田君が厳しくなったのは、俺が前の風紀委員長に心酔して依存するようになってからだ。
 あの頃の俺はまだ父親に期待を持っていた。
 今はどう頑張っても家族として受け入れてもらえないことがわかり、それを仕方のないことだと思えるが、当時の俺は引き取ってくれた父親をたったひとりの家族だと思っていたから諦めきれなかった。そのくせ、もうだめなのだということをどこかで理解していたから、精神的にとても不安定な状態だった。
 風紀委員長は、不安定な俺にその時一番欲しかった言葉をくれた。
 俺が必要だと言ってくれた。
 自分が誰かの役に立てるのだと思ったら、利用されることがわかっていても言うことを聞いたし、好きになってしまった。

 宮田君はみんなの前では俺に対して中等部の頃の彼を演じているだけだ。だけど、俺が関係していないところでは一貫して穏やかで優しいから、優しい人に厳しくさせてしまう自分がひどいことをしているように思えてくる。しかしその反面、悪い意味であっても自分は宮田君の特別なのだという優越感も生じ、俺は自分を殺したくなる。

 夏は嫌いだ。嫌な思い出が詰まっている季節だから。
 小学生の頃親が離婚したのだが、それは仕方のないことだった。物心ついたときからずっと二人は仲が悪かったし、兄も姉も諦めて小学校を卒業すると同時に今の俺みたいに全寮制の学校へと行ってしまった。寂しくはあったが、俺には仲の良い弟がいたから平気だった。生まれる前から一緒で、弟は俺と違いまともな感性を持っていたが、「蓮は変なの」と言いながらもずっと一緒にいてくれた。顔も性格も可愛い弟は、変わっていると言い続けられた俺が憧れる半身だった。
 弟とだけは親が離婚しても一緒にいられると思っていたが、そう思っていたのは俺だけだったのだ。

「おいてかれた……」

 とびきり暑い夏の日だった。
 
「誰に?」

 独り言に返事があり、驚いて顔を上げると、他の人には見せない表情をした宮田君が寝室の入り口に立っている。そういえば、昨日部屋のカードキーを渡したんだっけ。
 「取締の歩く見本」と有名な宮田君は、普段なら不良丸出しの見た目を、可愛らしいピン留めと、少し長めの髪の毛を結ぶふわふわしたゴム、にこやかな表情で隠しているが、今は髪を下ろしており、ふわふわした雰囲気もなく無表情で腕を組んでドアに寄りかかっている。その姿は、整った容姿も手伝って高校生には出せないような凄みがあった。

 答えない俺に彼はあからさまな溜め息をくれて、部屋に入ってきた。

「調子いいみたいだね、今日は」
「全然……」

 恭弥君が変なことを言ったせいで、宮田君が近づいてくるたびに心臓が跳ね上がる。

「今日顔赤いよ。人間に戻ったみたいだ」
「恭弥君が来て行ったんだ」
「へえ。慰めに?」
「わ、わからない」

 宮田君がベッドに上がってきて、いつものように俺の隣に腰を下ろす。少し尻が沈み、肩が触れた。

 会話が消える。
 いつもならばこの後は眠くなるまでただひたすら隣にいてくれる。気持ちが落ち込んでどうしようもない時は、それを察して俺の背中をさすってくれる。優しい言葉も笑顔もくれないくせに、彼は俺が欲しいものを与え続けていた。

『橘さん、宮田さんなら大丈夫ですよ』

 先程の恭弥君の言葉を思い出し、抱えていた枕を強く抱きしめる。
 宮田君は俺にだけ厳しい。騙されるとわかっていて風紀委員長に下った時から、宮田君に軽蔑されていることは知っている。宮田君は優しいから、最低な俺を放っておけないだけ。それなのに、恭弥君の言葉を、その通りだと受け入れている自分がいる。
 宮田君なら大丈夫だと、理性が働かないところでそう思っている。

 恭弥君に言われて、俺はなんて返したっけ。
 世間話でも、ちゃんと話を聞いてくれるかな。こんなことを言ったと思う。

 変だ変だと言われ続けてきたのだ。そのうちに、必要な話以外することが怖くなってしまった。普通じゃないから親にも弟にも捨てられたから。普通じゃないことがばれたら、また独りぼっちになってしまう。顔を伏せ、枕に押し付ける。何も見えなくなった。

「……ほうれん草の料理がたくさん冷蔵庫に入ってる」
「ああ、そうなの?」
「うん……」

 独りぼっちになりたくない。だけど、俺は枕に顔を埋めたまま宮田君に話しかけていた。

『宮田さんなら大丈夫ですよ』

 なんの疑いも迷いもなく言い放たれた言葉。今年できた後輩は、俺が何をしても、何を考えていてもお構いなしにまっすぐ見据えてくる。

「切ったりこねたり和えたり潰したり、ほうれん草の可能性はすさまじい」
「まあねえ」
「な、中でも、ジュースはやばいんだ。草だし、飲みながら、緑一色の料理を目にすると、自分が緑の世界の住人になったような気がして、怖くなった」

 思ったことをそのまま言ってみる。情けなくも声が震えたが、宮田くんは気付いただろうか。

 あの時俺は緑の世界の想像をしたのだ。地面はほうれん草のジュース色でどろどろしていて、空はほうれん草を絞った色。どこまでも続く大地を歩き続けても目に映るのは地に生えた俺の身長より遥かに高い草のむれ。恭弥君が作った料理を無理矢理口に突っ込まれている時、自然とそんな世界の妄想をした。

 俺の何がおかしいかは自分でもわからないが、思っていることだとか興味をそのまま言ったら、いつも茶化されるか不思議がられるかだった。
 この学校に来てからはなるべく人の意見に乗っかったりして自分から発言しないようにしていたけれど、俺の今の言葉はおかしかっただろうか。

「緑の世界は俺も嫌だな。何、恭弥が作っていったの?」
「うん。報連相が必要だとか言ってた。あ、報告とかの……」
「だからほうれん草か。あいつもよくわかんねえな」
「綾音とうまくいったみたい」
「へえ。それはめでたいなあ」
「うん。めでたい」

 会話が続いた。茶化されなかった。宮田君の反応も、いつもの冷たいものではない。なんか優しい。俺が思ったことを言ったからだろうか。風紀委員会関連の話だったら嫌でもしなければならないから、宮田君と話したい俺は仕事大好き人間よろしく委員会の話ばかりしていたが、その時の反応よりも今の反応のほうがずっとずっと良い……気がする。

『宮田さんなら大丈夫ですよ』

 恭弥君の言葉を何度も何度も反芻する。
 大丈夫だ。きっと大丈夫。
 俺のことを少しでも大事だと思ってくれているから、俺がこうなった時ずっとそばにいてくれるのだろう。それが同情でも構わない。どうでも良いやつの面倒なんて誰も見ないはず。血の繋がった親でも面倒を見ることを放棄するのに、ただの友達がなんとなくでこんなに面倒を見てくれるはずがない。

 しかし、そう思っても怖かった。
 嫌われていないなら、これから嫌われる可能性がある。捨てられるかもしれない。いや、宮田君なら大丈夫だ。見捨てるならとっくに見捨てている。
 
 彼ならずっと俺が知りたかった答えを知っているかもしれない。
 そして、それを教えてくれるかも。
 さっきまで、音だって水を介して聞こえているみたいだったのに、今ははっきりとしている。理由がわからないのに泣きそうでもない。精神的に大分まともな状態だ。

「……宮田君」
「何?」
「俺って、どこらへんが変なの? 自分じゃよくわからない。ひ、表情がないから不気味だって言われたことはあるけど、表情がないやつ、俺以外にもたくさんいる」

 意を決して聞いてみた。ただでさえ枕に顔を押し当てているから何も見えないが、その上ぎゅっと目をつぶる。答えあぐねているのか、答えは中々返ってこず急に不安になった。困らせてしまった。おかしな質問だと思われて嫌われたらどうしよう。
 宮田君が隣にいてくれなくなった時の想像をして、吐きそうになった。

「……俺が知ってる橘のおかしなところは、前の委員長に惚れてたところ」

 大分経った頃、思いもよらない内容の、抑揚のない声が降ってきて思わず顔を上げた。宮田くんと目が合う。彼は俺を相手にする時にしては珍しい、困ったような顔でわずかだが笑っている。やはり今日の宮田君はいつもと違う。俺にだけ冷たい宮田くんでも、みんなの前のふわふわとした彼でもない。

「で、でも、俺が委員長のとこ行ってたのは去年の話で、小さい頃からずっとおかしいって」
「わかんねーから聞いてるんだろうけど、橘は自分の何がおかしいって思うの? 一つくらいあるから聞くんでしょ。それ言ってみてよ。見た目ではないだろうし、性格? 雰囲気は不思議な感じするけど」
「わかんないよ。けど、昔から、俺が話すとみんな変だって言う。ここ来てからは気を付けてるけど、それでも俺、変なやつって扱いじゃん」
「橘は、普通になりたいの?」
「なりたいよ」

 食い気味で言ってしまった。

「……普通のほうが、好きな人に捨てられない確率が上がる、気がする」

 ここでも出てくるのは弟の顔だ。俺は弟の前でだけは取り繕ったりしなかった。思ったことを言って、楽しいときに笑っていた。
 ある朝目が覚めたら、家には俺ひとりしかいなかった。父親は仕事に行っており、まだいるはずの母親の姿も、ずっと一緒にいるはずの弟の姿もなかった。
 慌てて起きて、玄関に向かった。玄関の外で車のエンジン音が聞こえ裸足のまま外に出ると、運転席に座る母親と、助手席にいる弟が見えた。俺はあの時の弟の顔を忘れられない。
 ひどく驚いた顔。悲しさや寂しさではなく、彼は驚いたのだ。

 俺は駆け寄ることも声を出すこともできずに、家の中に戻った。
 置いて行かれたのだと理解したからだ。

「個人的には、無理しなくてもいいと思うんだけど。自分の普通の状態をみんなが変だっていうんなら、普通を演じることになるんだろうし、それはすごく疲れる。ずっと無理し続けることになるんじゃねえの?」
「それでも、一人になるよりはいいよ」
「寂しいのは苦手?」
「うん……」

 正直に頷くと、なぜか急に視界が反転した。回らない頭を必死に回す。目の前には、天井の電気を背にした宮田君の顔。そういえば、直前腕を引っ張られた気がするし、背中に若干衝撃が走った。引き倒されたのか、俺は。

「他のやつが橘のどこをへんに思ってるのかは俺にもわかんないよ」
「……そう」

 今の俺には、この状況もわからない。

「でも、寂しい時はエロいことをすれば少しは埋まる。これは知ってる」

 宮田君の言葉に、ただでさえ働いていない頭が止まった。えろいことすればうまる。何が? 寂しさ? 客観的に見たら押し倒されて、この言葉を掛けられるということは、宮田君はこれから俺にエロいことをしてくれるってことか?
 俺だって突っ込んだり突っ込まれたりしたことはあるが、そうして寂しさが埋まったことはない。逆にもっと寂しくなることが多かった。でも――

「……うん」

 宮田君の首の後に手を伸ばして、そのまま抱き寄せる。額同士がぶつかった。心臓が早鐘を打つ。恥ずかしさから顔を見られなくて目をそらすが、心臓の音は多分宮田くんにも聞こえてる。

『宮田さんなら大丈夫ですよ』

 縋るように恭弥君の言葉を思い返す。どうかなあ、宮田君大丈夫かなあ。調子のいいやつだって愛想を尽かして、急に捨てたりしないかな。

 ――大丈夫ですよ。

「……大丈夫だったら良いな」
「何? 大丈夫だったらって」
「エロいことしたら、寂しさ消えるの?」
「少しはね」
「そっか……。じゃあ、お願いしようかな」

 告げた途端に、宮田君の冷たい手がシャツの下から入ってきて俺の肌に触れた。あまりの冷たさに身を捩る。

「冷たい? ごめんね」
「な、夏なのに」

 耳元で囁かれ、宮田君の手の冷たさをありがたいと思えるほど全身が熱くなった。触れられただけでこんなに全身が爆発しそうになったこともなければ、これほど心臓が早く動いたこともない。死ぬのかな、俺。このままじゃ死因が「恥ずか死」になる。それだけは避けたい。なんか、伝えないと。

「宮田君っ」
「何?」

 耳元から顔を離した宮田くんがじっと俺を見てくる。初めて見る表情だ。男くさいというか、男前というか、この時ばかりは夏の憂鬱も、絶望にも似た寂しさも、自己否定の塊も全て消え失せていた。あるのは限りのない恥ずかしさと、骨を突き破りそうなほど心臓が激しく動いているという自覚のみ。あと、期待も少し。

「お、おれ、普通の、なんていうか、こういうことはあまりしたことなくてっ」
「へえ?」
「!」

 宮田君の手が額に触れる。そしてそのまま――

 口付けられた。
 強引な行動とは正反対の静かな口付けに戸惑う。さっきの体と一緒で触れるだけ。そして、額に当てられた手が撫でるようにゆっくりと動かされた。

 確かに、宮田君の言うことは本当だ。寂しさが埋まる、というよりは寂しさが吹っ飛んでしまった。宮田君以外のことを考える余裕がなくなった。

「がっちがち……」

 顔を離した宮田君が苦笑する。

「えっ。俺まだ全然勃ってない!」
「そっちじゃないよ。緊張してるって意味」
「あ、ああ。そっちか」
「うん」

 恥ずかしい勘違いに両手で顔を覆う。指と指の間から宮田君の顔を覗き見ると、俺の体の両脇に手を付いた宮田くんは、俺を見下ろして微笑んでいた。この顔は見たことがない。みんなといる時に見せるものよりも温度があり、柔らかい。心なしか、頬に赤みが差している。

「つられて俺も恥ずかしくなったよ」

 宮田くんは電気消そう、とひとりごち、ベッドの上に投げていたリモコンで電気を消してしまった。男くさい宮田君を視覚で捉えられないからそれにどきどきすることはなくなったが、その後宮田君からもたらされる感覚がより一層鋭く感じられて、俺は生まれて初めて興奮しないように我慢する羽目になった。今までは全ての想像力を総動員して頑張らないと興奮すらできなかったのに。

「橘」
「ん、な、何っ?」

 宮田君にしがみつき、打ち付けられるたびに襲ってくる快感をやりすごそうとしている時だった。

「俺は、置いていかないよ」
「ん、……え?」
「――」

 続けて出された言葉は聞き取れなかった。ただ、聞き取れても、それを意味のある言葉だと認識できないけれど。
 頭も体もぐちゃぐちゃになって、初めて気持ちよくて泣いて、麻薬の中にいるみたいな時に、都合の良い言葉を掛けられた気がしただけだ。それは夢と夢との間のわずかな現実のそれで、真実かどうかはわからない。

 それでも俺は熱に浮かされてばかになった頭で、ただただ幸せを噛み締めていたのだ。


 ――ねえ橘。もう諦めて、俺に依存しちゃえばいいのに