早寝記録

無自覚

「否定しなきゃダメでしょう。常識的に」

 注目の中、お盆に豪勢な食事を乗せた谷中が王子スマイルを顔に貼り付けて登場した。

「谷中、遅かったじゃねえか」

 海部もごく普通に応対する。きっとキスなんて彼にとっては日常茶飯事過ぎて取るに足らないことなのだろう。
 そう考えたらなんだかイライラしてきた。

「親衛隊の子たちと話していてね。矢野について」
「矢野……」

 しかし、矢野、という単語に意識を持っていかれる。

「どうしたの? ヒメ、気になるの?」

 俺の小さなつぶやきを谷中はしっかりと拾い、優雅に席に着いた。如月が自分のお膳をわずかによけた。テンションは高いが彼は意外によく気がつく。

「別に……。けど、まあ、大丈夫だったかな、とは思うよ」

 今日ずっと気になっていたことを言いながら矢野のお日様みたいな笑顔を思い出すと、今しがた発生したイライラが消えていった。けれどそれとは逆に心配が募る。
 自分でもどうしてこれほどまでに彼のことが気になるのかわからなかった。
 笑顔に心を奪われたことも確かだが、どうも矢野を見るとひどく懐かしい気持ちになるのだ。そして決して不幸なところは見たくないと思う。
 どうしてだろう。
 わかりそうだが、肝心なところに靄がかかってるみたいだ。
 だけど、俺が矢野に好意を抱き、彼が嫌な思いをせずにこの先生活していけるかどうかが気になっていることは否定しようのない事実だった。

「……嫌な話はまだ聞こえないから、大丈夫だったとは思う。でも、俺今日は海部とずっと生徒会室にいたからわかんないな。如月、何か聞いてないの?」

 けど、この先はどうか――と思い如月に尋ねるが、彼もその隣にいる谷中も、果ては海部までもが驚いたように口を開けていた。

「……何?」
「鏡が……自分から二文以上話すなんて……!」
「はあ?」

 如月が目をまん丸く見開いて驚愕の表情を浮かべる。
 もしかして、海部と谷中も同じ驚きなのだろうか。けどそこまでしゃべっていなかったつもりはない。

(あ、わかった)

 普段の自分を思い返して気がついた。
 いつも、海部が「なあ、鏡」と聞いてきてくれるからしゃべっていると思ってしまっていたのだろう。
 けど、昨日は矢野と結構話した気がする。それこそ、まだ俺が彼に対してかなりの人見知りを発揮していた時から――

「なーんか面白くねえなあ」

 俺の隣の海部が内容とは逆に面白そうににやりと笑った。

「つうか如月全然進んでねえじゃん。冷めてんじゃねえの、それ」

 海部がまだほとんど手の付けられていない如月のカレーうどんを指さす。さっきまでおいしそうに立ち昇っていた湯気はすっかり消えていた。

「まあ、ゆっくり食えば? ヒメ」
「何?」
「そろそろ行くぞ。生徒会室。記録まだだろ」
「そうだね」

 俺の答えを聞かぬうちに立ち上がった海部に続いて俺も席を立つ。さりげなく海部が俺の分のお盆も持った。こんなふうにさりげなくされると、遠慮をしたらそれが水を差すことになりそうで、何も言わずに海部の背中を追う。

 彼が歩くと、まるでモーゼの十戒みたいに人波が割れていくが、今日はとくに凄まじかった。カウンターに向かう海部を入り口の前で待つことにして一人で歩く途中、会津弟とあとひとり、知らない可愛らしい子と一緒に食事をしている矢野がいた。
 笑ってはいるが、昨日見たようなお日様ではない。

「矢野……」

 知らず声が出た。聞こえるはずがないのに、横を向いていた矢野が俺の方を向く。目が合った。途端、周囲のざわめきが増す。

「ヒメ」
「ん? あ。下膳、ありがとう」

 声のした方に顔を向けると、下膳を終えて戻ってきた海部が呆れ顔で柱に背を預けている。その姿も気怠げで、すごく様になっている。

「別に……つうか何笑ってんの」
「は? 俺? 笑ってないけど」
「笑ってたじゃん。口角上がってた。緩んでたっつーの? ま、いいか。行くぞ」
「うん」

 自覚はしていなかったが、笑っていたのだろうか。仮に笑っていたとしても俺だって笑うことくらいある。
 ああ、一人で笑っていると思われたのか。

「別に、笑ってたとしても一人で笑ってたわけじゃないよ」
「知ってるって。矢野だろ。向こうで食ってた」

 歩みの早い海部に付いていくため、大股で、さらに速く足を動かす。食堂からだと、少し離れた生徒会室のある等に着く頃にはすっかり俺の息は上がっている。

「そんなに仲良くなったの? 昨日の買い出しで」
「そんなにって、別に、普通だよ」
「普通? 普通ってどのくらいだよ」
「普通に話せるくらいだよ」
「……お前にとっちゃすごい近づきっぷりだな」
「そうかな」
「ああ。なーんか面白くねーの」
「もしかして海部、俺がいじめられてるの見るのが好きだった?」

 海部が足を止め、わずかに驚いた表情で俺を見た。ふいを突かれたようなその表情は珍しく彼を幼く見えさせる。
 窓からは昨日と同様なキラキラした光が差し込んでいて、海部を輝かせていた。それを見て思う。
 やっぱり、俺は海部の顔が好きだ。性格も好きだ。高校生になってからの付き合いだが、多分いちばんの友達だと言える。

 ふと、海部とは異なる幼い顔が脳裏に浮かぶ。
 昔、いじめられていた時いつも助けてくれていた友達。その時は最初で最後の友達だと思っていた。中学校が離れて会えなくなったけれど、元気だろうか。

「……いじめられてる奴見るのは、昔も今も好きじゃねえよ。あたりまえだろうが」

 声低く、海部が言う。

「そうだよね。ごめんね」
「……俺が言える立場じゃねえけどさ」
「なんで?」
「小学生の頃、俺知ってたから」

 一瞬切なそうに眉根を寄せた後、海部は再び早足で歩き出した。俺はほとんど走るようにして追いかけながら、急き立てられる思いでどうにか伝えようと口を開く。

「別に、助けて欲しかったなんて思ってないよ。いつも助けてくれてた友達はいたけど、それを良しと思ってたわけじゃない。守られなくても良いようになろうと思ってた」
「そうかよ」

 顔は見えないが、そっけない、不機嫌な声。
 気分を悪くさせた――
 不安が雪崩のように押し寄せてくる。

「海部」

 呼んだ声は情けなかった。

 海部が足を止め、俺の前に立つ。

「なんて顔してんの」

 彼は呆れたように言って渋面を作り、その表情のまま俺の髪に手を差し込んできた。犬にするみたいにぐしゃぐしゃとかき回される。

「ごめんね」
「謝ってんじゃねーよ。次いじめられでもしたら、俺が助けてやる。だから呼べよ。わかったな」
「うん」

 女の子のように守られることに慣れきってしまっている自分を俺は自覚している。そしてそのことを情けなく思っている。
 けれど、海部の言葉が嬉しかった。