早寝記録

地味!

 ホームルームが終わって早々俺はひとりで生徒会室に向かっていた。
 いつもは同じクラスの海部とともに行くが、彼は先生に呼ばれて行ってしまったのだ。

 誰もいない南棟を窓の外を見ながらゆっくりと歩く。南棟は生徒会室や風紀室、各委員会の部屋がある。
 4階に着いた時、生徒会室の扉の前に座り込んでいる生徒がいた。

「……矢野」

 廊下の端から名を呼んでみる。聞こえるかどうかもわからなかったし、その人物は扉を背にしてうなだれているから矢野かどうかもわからなかった。
 しかし、少年には俺の声が届いたようだ。

「矢野……!」

 怠そうに顔を上げたのは矢野だった。
 思わず進む足が早まる。

「レ……鏡さん」

 矢野が立ち上がった。昨日から思っていたことだが、矢野は俺のことをすっきり呼ばない。必ず一度つっかえてから「鏡さん」と言うのだ。

「別に、好きなように呼んでいいんだけど」

 矢野の前に立ち、わずかに目線を上げて矢野と合わせる。矢野は、少しだけ困惑したような表情で頭をかいた。

「馴れ馴れしくないっすか。俺」
「馴れ馴れしくないよ」
「それならいんですけど。頭の中ではレイさんって呼んでたからなんかうまく行かなくて」
「別に、なんて呼んでもいいよ。ヒメは恥ずかしいから止めて欲しいけど」
「わかりました」

 矢野は、なんだか嬉しそうだった。

「俺、人付き合いって久しぶりなんです」

 わずかに微笑み、矢野が弾んだ声を出す。

「友達、出来たみたいじゃん」
「同室の会津と、神崎っての。神崎は昨日傷だらけで会津の部屋転がり込んできてビビりました」
「へえ。可愛い感じの子だったのにね。ケンカには縁の無さそうな」
「そうっすね。ねえ、レイさんさあ」
「何?」
「あの――っ」

 矢野が口を開けた瞬間生徒会室の重々しいドアが開き、鈍い音を立て矢野の背と頭を打った。

「うわ」

 瞬間、がくんと全身に衝撃が走った。何が起こったかわからなかったが、あまりに突然のことで矢野は踏ん張れず、身構える間もなく彼の前に立っていた俺に突撃したようだ。

「イテ!」

 強かに尻を打つ。尾骨に衝撃。それから、視界が真っ暗になった。息もうまくできない。顔に当たる温かいもので、矢野に押しつぶされていることを知った。

「うわー! 何! 何でこんなとこにいんの! ごめんね! わ、なんか倒れてる、大丈夫?」

 冷静になった途端、白石の慌てた声が聞こえた。ちょっと顔をずらして外界を見ると、彼はどうしようどうしようと、俺達の周りを右往左往している。
 おしりも痛いし息も苦しい。息苦しいのは矢野が動かず、全体重が俺に掛かっているから。
 ……ん? 動かない?

「……矢野、生きてる?」

 ぐったりする矢野の下からなんとか抜け出す。矢野はしっかり目を閉じて眠るように倒れていた。白石が今度は青ざめた白い顔で俺たちを見下ろしている。
 それはよく2時間もののサスペンスドラマで見る、高飛車な昔の知り合いをついつい殺してしまった時の主婦の顔だった――





「軽い脳震とうだって」

 保健室まで矢野を運んでくれた男が、おっとりと矢野の状態について説明した。

「すぐ目覚める?」
「うん。そんなに時間は掛からないって。良かったねえ、白石」

 まだ青ざめたままの白石だが、きっと青ざめている原因はさっきとは違う。それはきっと今ベッドを挟んだ俺たちの向かい側で、優雅に足を組んで座っている男のせいだろう。

 彼は会津慶也――風紀委員長であり、白石の天敵だ。もっとも慶也自身は敵だなんて思っていないが。好きなのか、からかって遊んでいるだけなのか、慶也は楽しそうに青ざめている白石を眺めている。
 そして、彼は肩まである髪を女の子のように指で遊び、意地悪くにやりと笑った。

「それにしても、きゃー委員長~! きゃー鬼~! て言われて大人気の俺をさ、使いっ走り出来るのなんて白石だけだよ、ほんと」

 くっくと笑う慶也を、白石は緊張の面持ちでじっと見ていた。

「ち、近くにいたから呼んだだけだし、お前ほんと何偉ぶってんの。風紀委員長だって別に偉くねえよ。一般つかない生徒なだけだし、別に、別に」

 白石が意味の分からないことを言う。彼は慶也絡みの時だけ人が変わる。いつもはずっとヘラヘラしていてテンションが結構高くて明るいのに、慶也が絡むと弱いくせに強がる子どものようになるのだ。

「俺はもう行く。すぐ目覚めるなら目覚めてから謝る。ヒメはどうする?」
「俺はここにいるよ」
「じゃあ、目覚めたら教えてくれる?」
「うん」

 よろしく、と頼み白石が保健室を出ようとした。そのあとを慶也が追うのに彼は気付かない。慶也が振り返って俺を見て、笑みを浮かべた口元に人差し指を当てる。白石には悪いが、声は出さず、ただ手を振って見送った。

 それから数秒後、白石の小さな悲鳴が聞こえた。

 ふたりがどこかへ消えた後矢野が眠るベッドのすぐそばに丸椅子を移動してそこに座る。
 矢野はすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。頭を打ったのは白石がドアが開けた直後と、俺の視界が暗くなった時。きっと二段階だった。扉に後頭部、床におでこをそれぞれぶつけたのだろう。運の悪いやつだ。

 運が悪いというと、そもそも彼は生徒会入りをどう思っているのだろうか。運悪く昨日転校してきて海部の思いつきで補佐になった。整った顔立ちをしているがまだ一年生だし、いかんせん地味だ。この先生徒たちからいわれのない恨みを買ってしまうことも十分起こりうる。特に、整った顔立ちの奴が嫉妬すると恐いということを、俺は身を持って知っている。

 俺も色んな原因で何度も危険な目に遭ったことがある。

 生徒会役員選挙は人気投票だと言われている。新聞部主催の人気投票と上位の結果が同じということからもわかる。
 俺以外の役員は同性に対する憧憬や恋慕の情やただの色情など色々なところから票を集めているが、俺はほぼ性的対象としての票だ。俺と寝たい奴のみの人気なんだと開票した生徒から教えられたことがある。

 みんな生徒会に入るくらいの人気者だから、嫌がらせなんてされないと思っているみたいだがそんなことはない。嫌がらせもされるし、俺を性の対象として見ているやつから言い寄られ、時に襲われもする。

 さらに、海部のファンの子や慶也のファンの子によく嫉妬され、色々と言われたりやられたりすることも多い。

 役員の俺でだってそうなんだから、矢野もきっと嫌な思いをすることになるだろう。
 そう思うとどうしようもなく心配なのだ。
 このままだと矢野は新参者のくせに生徒会役員に近づいたということで誤解だらけの嫉妬をされるし、矢野のあのお日様みたいな笑顔を見るとみんな彼の生徒会入りを納得すると思うが、今度はきっと別の危険に晒される。

 どっちに進んでも地獄。

 彼のあの笑顔を見なかったらここまで想わなかったと思う。汚いものにあてられて日が陰るのは嫌だ。

「……それだけじゃないんだよなあ」

 気になるのは、笑顔のせいだけじゃない。けど、なんなのかはわからない。

 わからないけど――

 守ってやれたら良いんだけどと、身の程知らずなことを思った。