嫉妬
『レイちゃんさ、目逸らしちゃだめだよ』
そう言って恭弥くんは俺の手を取り、じっと見つめてきた。恥ずかしくて目を逸らす。
『ダメだってば。逸らしたらその瞬間負けちゃうんだから。中学生になったらおれはもういないんだから、克服しないと』
厳しいことを言いながら、恭弥くんは泣きそうな顔をしていた。その表情に申し訳なさが募っていく。
『痩せたらなんか可愛くなったし、うじうじを隠したら大丈夫だよ。友達もできるし、平和に暮らせる』
『痩せたくらいで、無理だよ』
『大丈夫だよ。しょせん世の中見た目が全てなんだよ』
恭弥くんは大人っぽいことを言って、すっかり俯いてしまった。
その姿は悲しみを必死で我慢しているように見えた。今までずっと頼ってきたけど、俺は恭弥君の強いところしか見ていなかった。彼にだって辛いことだとか人に頼りたいことがあったはずなのに。
俺はうつむく恭弥君を見て初めて自分の罪を知ったのだ。
生徒会室には今日も平和な空気が流れている。
「ロイヤルストレートフラッシュ!」
谷中がごきげんに手札を開ける。みんなの表情が一瞬で曇った。
「もう細工は全て終わったよ。見抜けない内は君らに勝機はない」
谷中の勝ち誇った笑みを見て、海部は苦虫を噛み潰したように苦々しい表情で手札を投げ出した。
「ああ、もうやめだやめ! 次大富豪やろうぜ! トランプ変えて」
投げ出されたカードは一つも揃っていなかった。
「海部が弱すぎるんだよ。将棋とか囲碁は意外に強いのにね」
「ほんと、強いですよね」
矢野が思わず、というように口を挟んだ。
「俺、将棋には自信あったんですけど、勝てなかったですもん」
「中々強かったが、正々堂々で俺に勝てる奴はいねえよ、この学校じゃ。将棋部にも敵はいねえ」
「昔から強いんですか?」
「ああ、父さんが好きで、ずっと相手してた」
「へえ」
「矢野は、誰に教わったの?」
白石がトランプを片付けながら矢野に尋ねた。
「俺も途中から見てたけどさ、終盤、海部が苦戦してたからすげえなあって思ってたんだよ」
白石の質問に矢野は「じいちゃんです」と短く答えた。
いつものようにそこで会話が途切れるかと思ったが、矢野はさらに言葉を続けた。
「じいちゃんと住んでた時に、朝起きてから寝るまでずっとやってたこともあったから、負けて結構悔しかったんですよ。うんざりするほど付き合ってたから」
海部に負けた時のことを思い出してか矢野の表情が悔しげに歪んだ。それを海部は満足気に眺めた。
「いつでも付き合ってやるよ」
「……なんかムカつく」
憎々しげに言う矢野がいつもよりも子供っぽく見えて、つい助言をしたくなる。
「麻雀できるなら勝負挑めばいいよ。海部、運がないから」
「なんだよヒメ、裏切りか?」
「だって俺でも勝てるもん。麻雀も花札もポーカーも、運要素があるやつならなんでも」
「そんなに弱いのに勝ったって嬉しくないっすよ」
矢野が吐き捨てる。
「失礼だろ、矢野! それに運なんて運じゃねえか。言ってる意味は分かんねえだろうが、運が良いとか悪いとか、そんなの俺は信じねえ。運の良し悪しはみんな平等だ」
「それにしちゃ海部の負けっぷりは異常すぎるよ。一回お祓いでもしてきたら?」
楽しそうに笑いながら白石がお祓いをするように手を叩く。
「みんなして馬鹿にしてよ。最悪だぜ」
海部がうんざりしたようにため息を吐いて立ち上がった。
「イラッとしたからトイレ行ってすっきりしてくる」
そう言って海部がちらりと俺の方を見たから、俺も立ち上がり歩き出した彼に付いていく。
生徒会室を出たところで、海部に気になったことを尋ねた。
「海部、矢野と将棋したことあったんだね」
「あ? ああ。一昨日な。朝っぱらに矢野が部屋に来たんだよ。慶也におつかい頼まれたっつって。絢也と同室だからか、もうあいつも立派に慶也の使いっ走りだ」
「そういえば一昨日、放課後まで来なかったもんね。教室にも生徒会室にも」
思い出しつつ海部を見ると、彼は口の端を吊り上げて面白そうに俺を見下ろしていた。こういう時はからかわれる時だ。
「放課後まで一切連絡くれなかったもんな。俺がいなくても別に良いのかって、ちょっと寂しかった」
冗談のような、そうでないような、そんな曖昧な声色で海部が言うから、俺はどういうふうに返せばいいのかわからなくなった。
「……気にはしてたよ」
そう、気にはしていた。風邪を引いたんじゃないか、とか、誰か連れ込んでるんじゃないか、とか。最近はいなかったようだけど、海部だって人と付き合ったりする。
連絡をした時に恋人が近くにいたら申し訳ない。……いや、違う。
思い出して気分が落ちていく。去年の末だったろうか。暇だったし会いたくなってメールをした。その時返ってきた『今デート中』の後ろにつけられたにっこりマークを俺は今でも忘れない。
前会長みたいに遊ぶだけの関係だったらそれほど気にしないが、海部はちゃんと「付き合う」からこんな気持ちになるのかもしれない。
去年は気付かなかったけれど、多分これは嫉妬だろう。
「ほんと?」
海部が重ねて聞いてくる。
「うん」
恋人でもできたのかと思ったから、連絡できなかったんだ。
心のなかで付け足した。女の子みたいだと思う。この顔の女々しさは性格が反映されてるんじゃないだろうか。
丁度良くトイレに着いたから、手洗い場の前で用を足す海部を待つ。手洗い場には綺麗に磨かれた鏡が打ち付けられてあり、自分の女々しい顔をよく見ることができる。
男らしさはなく、かと言って女のようでもない。性別不明、というのが俺の特徴らしい。
「何してんの? 自分の顔じっと見て」
戻ってきた海部が手を洗いながら不思議そうに聞いてくる。
「もっと男らしかったら良かった」
見た目も性格も、と素直に言った。俺の告白に、海部は面白そうに、優しげな目をして笑った。彼の表情にからかいの色は見えない。
「男らしくなりてえなら、やっぱサバイバルだな」
「サバイバル……」
「精進合宿、死ぬ気でやろうぜ」
海部がそう言って俺の頭をぽんぽんと叩いた。そして、その手はゆっくりと降ろされ、俺の肩に落ちてくる。鏡の中の海部を見ると、彼は鏡なんて見ておらず、その視線は俺の横顔に注がれていた。
どきりとした。男とも女ともつかない俺と、男のくせに、女っぽさなんてないのに綺麗な海部。
俺が少しでも海部の方を向けば、自然に抱きしめられそうなそんな雰囲気がある。
男らしくなりたい――と言ったのに、俺は心根で彼に抱きしめられたいと思っている。
(レイ、盛るのは止せ。ここはトイレだ)
自分を諌めようとして、慌てる。別に盛ってない。雰囲気に流されたいだけであって、欲情してるとかそんなことあるわけない。
(けど、海部と俺なら、完全に俺が女役だ……)
はっとする。何考えてんの。ばかじゃないの。ここ、トイレだし、ムードもロマンも何もない。いや、そういう問題じゃない。
(そういえば、キスした時、そのうちキス以上のことをしたいって言うよって、海部言ってた……)
いやいや。何考えてんの。無意識のうちに下げていた視線を少し上げると、さっきよりも顔を赤くした俺が鏡の中にいた。
「海部」
海部を呼んで彼の方に顔を向ける。このままだとやばい。思考が止まってくれない。
「何赤くなってんの?」
「トイレだからだよ!」
海部の突っ込みに訳の分からない返しをする。
「意味わかんねえんだけど」
爽やかに笑う海部を見て、罪悪感が育ってゆく。こんなに爽やかな海部で、えっちいことを想像した……。いや、想像はしてない! 妄想しただけ。これも違う。何が何だかわからない。
「鏡」
名字で呼ばれ、海部から外していた視線を彼に戻す。けれど目と目が合い、恥ずかしくなってまた目をそらした。
『ダメだってば。逸らしたらその瞬間負けちゃうんだから。中学生になったらおれはもういないんだから、克服しないと』
だけど、その時忘れていた幼馴染の言葉を不意に思い出して、俺は再び海部と目を合わせた。
何に負けるんだろう。わからないけど、目を逸らすことはきっと負けになる。それはいつも人から逃げる自分への敗北かもしれない。
目を合わせた俺に海部は満足気に笑って、数回きょろきょろと辺りを見渡した。
「ねえ、またキスしていい?」
そうして初めて訊いてきた。
目をそらしたら負け。では、ここで目を閉じたら負けになるのだろうか。
照れ隠しに考える。
俺は肯定に代えて、ゆっくりと目を閉じた。