犬になりたい
【条件反射】[conditioned reflex]
パブロフの用語。口の中に食物を入れると唾液が出るのは生得的な反射であるが、たとえばイヌにベルの音を聞かせてから餌を提示する訓練を繰り返すと、ベルの音を聞かせただけで唾液を出すようになる。このような場合この音刺激によって引き起こされる唾液分泌反射を条件反射という。
『ブリタニカ国際大百科事典』
「なんで二人のときは名字で呼ぶの?」
生徒会室に戻る途中、機嫌良く俺の前を歩く海部に投げかける。彼はにんまりしながら振り向いた。
「思った以上に浸透したから」
「浸透?」
「次の日にはみんなヒメ呼びだろ。なーんかなーって」
「俺は始めっからなーんかなーだよ」
「何で?」
「だって、ヒメだよ?」
「いいじゃねえか、似合ってる」
他人事のように言う海部にむっとする。
「海部は卒業したら俺と縁を切るつもりだ」
「はあ? なんでそうなんの?」
「だって、ヒメなんてあだな通用するのきっとこの学校の中だけだよ」
「姫野とか姫路とか、名字だと思われるかもしれねえじゃん」
「おれ、ヒメならポチとかのほうがよっぽど良かった……」
俺の心は悲痛な叫びを上げている。遠い未来の同窓会、おっさんになった俺を、みんなが「ヒメ」と呼ぶところを想像したからだ。その時にはきっと海部の傍に俺はいない。今クラスも一緒で部屋も近くて生徒会でも一緒だからいつも一緒のような気になって、離れた後のことなんて想像できないけど、遠い未来どころか2年後にはもう俺の隣に彼はいない。
時間とはそういうものだ。時間は予想もできないほどに非情だ。
嬉しいことも悲しいことも全部かき消してしまう。
どんな尊い時も過ぎ去った瞬間に消えてしまうのだ。
いくら俺が今が続くようにと願って泣いても、未来の俺は懐かしかったと笑うのだろう。
「鏡って、呼ばれてない呼ばれ方ある?」
「呼ばれてない呼ばれ方?」
変なことを言う、と不思議に思い海部を眺める。海部の整いすぎているくらいに整った顔が目に映る。俯いて自分の足先を見ているよりもずっとずっと良いと思った。
下を向いて歩くとお金を拾ったり変なものを踏まないで済んだりするけど、顔が見れて、それがうれしいから上を向いていたほうが幸せだ。
「もうほぼヒメ呼びで、矢野はレイさん。教師は名字で慶也が令君、変態がレイちゃんだっけ?」
「うん」
「そういや、呼び捨ていねえな」
「家族くらいかな」
「ああ、そりゃそうか」
海部はひとりで勝手に納得したようだったが、俺にはあまりありがたくない呼び方だった。
俺は天才と秀才しかいない家系の中で、全てが平均以下だった。平均以上にあったのは体重くらい。それもストレスで食べてばかりだったからだと思う。
思い出して鬱鬱とした気分になってくる。
全ては小学校に入ってからだ。兄さんも姉さんも頭が良くて運動も出来て友達も多くてみんなから褒められてばかりだった。
比べられるようになってから、元々内向的な性格もあってかどんどん人前でうまくしゃべれなくなって、人が怖くなっていった。
そんな時に、近所にシュークリーム専門店ができて――
(おいしかったなあ)
けど、あれほどおいしかったシュークリームも今は嫌な思い出ばかりよみがえる。
お小遣いを全部シュークリームに費やして怒られたり……
それはまだまだかわいい思い出だけど、家族のことを思い出すと「レイ!」と怒鳴られた記憶ばかりが浮かんでくる。
「何? なんか暗いな」
「レイ! って、怒られてばっかだったから。それかレイ……って呆れられたり。それ思い出した」
「ふうん。逆・魔法の呪文か」
「なにそれ」
「聞いたら元気がなくなる言葉」
「確かにそうかも」
それが自分の名前だなんて最低なことだけど。
「あ。いいこと考えた」
そんなことを考えていたら海部がいつかと同じようににやりと笑った。
「いいこと?」
「よし、令。お前を今日から令と呼ぶ」
「……」
「なんだよ」
海部が悪戯っ子よろしくひひ、と白い歯を見せた。
俺はというと、いきなり名前で呼ばれ、心臓を何かで撃ち抜かれた気になって、いつも以上に言葉が出てこない。
「令! って呼ばれたら幸せになる感じにしようか」
「……なにそれ」
「パブロフの犬的な。反射で幸せつかもうぜ!」
そう言われ、頭を犬みたいにわしゃわしゃとかき回される。
『せめてペットでも人になりなさい』
谷中の天の声が俺に降り注いだ。ペットでも良い。谷中はペットでも人のペットになりなさいというが、俺は犬でもネコでもチンチラでもなんでもいい。付いて行きたい追従したい。人から傀儡だ金魚の糞だと揶揄されたってそれは傍においてもらえないやつらの僻みと捉えよう。