早寝記録

遠い人

「面倒な手段とらなくても、おれが言えばみんな信じるんじゃないかな。ちょうど臨時集会があるんだし。しかも部活関連。クリスマスの真実を話すのにはもってこい、だよ」

 先輩の提案を反芻する。
 確かに先輩が全校生徒に向かって発信したら写真部の汚名は返上できる。

「おれたちが嫌いなのは新聞部。写真部はどうでもいい」

 でも――

(なんか、すっきりしない)

 海部が動いてくれた。今も杉原先輩をうまく持ち上げ誘導してくれているだろう。

「……先輩」
「ん?」
「あ、ありがとうございます」

 少し目を上げ、先輩と目と目を合わす。人と目を合わせて話すなんてこと前まで出来なかった。先輩の目は今は三日月型になっている。ふっくらとした涙袋が彼を柔和に見せている。

「けど、大丈夫です」
「そう? おれはどっちでもいいけどね」

 先輩が微笑む。そして、ゆっくりと顔を近づけてきた。誰が見ても見惚れてしまう先輩の端正な顔が大きくなっていく――

「だめ、だめです」

 先輩と俺との距離が0になる前に片手で自らの口を塞ぐ。

「はは。やっぱり鏡はいいね。避けるもん」
「なんですか、それ」
「おれ、キスしようとして避けられたことなんかないし」
「ありえない……。じゃ、じゃあ、俺はほっといて下さい」
「やだよ。おれ、鏡のことすごく気に入ってるもん」

 先輩はそう言うと俺の空いている方の手を掴み、部屋の奥へと向かった。いくまいと後ろに体重をかけるが先輩のほうが力が強く、おれはつまずきながら奥にある小さな二人がけのソファへと引っ張られる。

「わっ」

 強く腕を引かれソファに押し倒された。先輩が覆いかぶさってくる。

「無理矢理は嫌いって、言ったじゃ」
「人によるよね」
「なっ」

 両手をひとまとめにされ、頭上にねじり上げられる。
 やばい。海部、助けて。

(だめだ……)

 海部は呼んだら絶対に来てくれる。だけど、彼は今俺のために杉原先輩を説得してくれている。だからここは自分で何とかしないと。

「先輩、手が痛いです」
「うん。ひねってるから」
「……あの、離して欲しい、です」
「離したくないからねじってるんだよ」
「そうですよね……」

 だめだ。
 蹴ろうにも先輩はぴったりと俺に覆いかぶさっているし、俺の右足はソファのどこかに挟まり、左足はソファの隣に置かれたテーブルの下に入ってしまっている。隙間がなく無駄がない。どうしてこうなったのかわからないが、俺は動けなかった。

 先輩の手が俺のシャツをまくりあげ脇腹をいやらしく撫で回す。

「先輩!」
「大丈夫だよ」
「何が――! あっ」

 先輩が胸の突起に触れた時、ちょっと感じてしまった。最悪! 感度だけは良い自分が恨めしい。

「中学生の時はさ、可愛かったし好きだったけどやる気は起きなかった。けど、鏡、大人っぽくなったよね」
「まだまだ子どもです…!」

 つまんだり、こねたり、そっと触れたり、どこをとは言いたくないが、ちょっと、本格的に気持ちよくなってきた。

「鏡」

 先輩が懲りずに顔を近づけてくる。俺はもう首が落ちる覚悟で横を向いた。90度以上回ったと思う。痛い。けど、乳首攻撃は諦めた。逃れられない、だから、唇だけはなんとしても守る。頭隠して尻隠さず! だってキスは恋人同士がするものだ。唇だけは死守しないと。
 今まで襲われたりもしてきたが、何をされてもお尻と、何より唇は死ぬ気で守り通してきた。あれは好きな人とするものだ。半端な気持ちでしちゃだめだ。

「鏡、首がゴキって鳴ったよ」
「俺、キスはしません」
「ふうん。……ねえ、海部と付き合ってるの?」
「つ、付き合ってないです」
「あは。どもった」
「付き合ってないんです」

 先輩の手が徐々に降りてくる。カチャリ、とベルトに手が掛けられた。
 やばいと思った瞬間だった。

「会長!」
「海部……!」
「会長、何してんの! 風紀にしょっぴきますよ!」

 勢い良くドアを開けて室内に入ってきた海部が怒鳴りながら俺たちの方へと向かってくる。ようやく生きた心地がした。

「未遂だよ。それに、鏡嫌がってなかったし。キス以外」
「い、嫌がってた!」
「はは。それさあ、態度で表さないと」
「あ、表してた!」
「伝わらなきゃ意味ないよ」

 だめだ。先輩には何を言ってもだめだ。
 俺は諦めた。先輩もただ遊んでいただけのようで、すぐに俺の上からどいてくれた。そして、にこやかに去っていく。
 海部は先輩の後ろ姿を憎々しげに見つめていた。

 先輩がいなくなった室内には、なんだか張り詰めた空気が流れている。

「……令」

 海部が静かに俺の名を呼ぶ。どきりとした。怒っているのかと思っていたが、彼の声に怒りの色は感じられない。

「何……?」
「何された?」

 海部が俺がいる椅子へと腰掛ける。

「何も。先輩はああ言ったけど、俺全力で拒否したし。だから、大丈夫だった」
「……服、はだけてるけど。それに……」

 海部が俺の乱れたシャツを眺め、わずかに眉を寄せた。

「立ってる……」

 そして、手を伸ばしさっきまで先輩に遊ばれていた胸の突起へと触れた。こわごわと触れてくる様子が彼には似合わず意外に思った。と、違う。こんな冷静に意外がっている場合ではない。

「ちょっと触られただけ! 別に、やらしいことは何も……」
「これ、やらしいことじゃん。かが……お前が思うやらしいことってなんだよ」
「やらしいっていうか……。嫌だ、言えない。引かれる」
「引かれるようなことなの?」
「引かれるようなこと」
「なんだよ。言ってみろよ」
「や」
「鏡」

 呼びかける声は優しい。

「海部……」

 正面にいる海部にもたれかかり、彼の肩口に顔を埋める。海部の手が俺の背中に回された。

「言ってみろって。引かねえから」

 海部の優しい声に全てをぶちまけたくなる。けれど、言ってしまったらきっと引かれてしまう。だって、これは女の子のような悩みだ。男が悩むことじゃない。
 はぐらかそうと思って顔をあげると、海部は困ったような、だけどやけに優しい目をして俺をまっすぐに見ていた。

「……このくらいのことって思わなかったら、俺、やってけないから」

 ぽろりと言葉が出てしまう。
 海部の反応を見ないうちに、再び彼の肩口に顔を埋める。

 昔から、俺はみんなから性の対象として見られている。遊びのふりをしてクラスメイトに触られることも、それが限度を超えることもよくあることだった。

 キスはさせない。お尻には入れさせない。

 この2つを守って来た。この2つ以外は守れなかった。

「小学生の頃は良かったんだ。だって、あの頃は俺嫌われてたから。だから嫌なことされたら憎むだけで良かった。けど、今は違う。みんな俺が嫌いでしてくるんじゃない。このくらいのことって思わなかったら、俺、やってけなかったんだ」
「かが……令」
「慣れてるなら名字で良いよ。俺、海部にならなんて呼ばれても嬉しいから」
「……天然が一番恐えなあ……」

 海部が呟く。彼の声は少し苦しそうだった。俺が変なことを言ったせいだろう。また困らせてしまった。

「……謝る」

 海部が小さく言った。
 何を謝るのかわからず顔を上げて彼を見上げる。

「何を……?」
「3回もキスした。けど、3回めは良いっつったよな」

 海部は真面目な表情に笑みを浮かべていた。

「気にしてない! 俺、全然気にしてない。一回目はびっくりしたけど、俺、嫌だと思ったことない」

 言ってから、告白じみていると思った。海部は怒らないけれど、俺は彼に気持ち悪いことばかり言っている。
 俺は今彼にしがみつく格好になっているが、これも迷惑だろうか。
 そう思って少し体を引くと、背に回された手に彼の方へと引き寄せられた。それにばかなくらい安心する。

「……俺さあ」

 海部が歯切れ悪く口を開く。

「何?」
「……いや、なんでもねえや」
「そう……」

 気になったが、聞くことは出来なかった。言い難いことなのだろう。きっと聞いたらショックを受ける。
 海部は俺のことをどう思っているのだろう。
 最近浮かんだ疑問がまた出現する。

 好き、ではないと思う。だって俺の告白じみたことを聞いたって彼は何も言わないから。今まで、俺は海部に勘違いをさせるようなことをたくさん言ってきたと思う。それでも海部は俺に何も聞いて来なかった。もしも俺のことを好きなら「俺の事好きなの?」と尋ねてくるだろう。そうしたら俺はそうだと答える。

(……俺は海部と付き合いたいのか?)

 自分の心がわからなかった。
 海部のことを恋愛感情込みで好きかと問われれば、そうかもしれない、と答えるだろう。恋愛感情がどんなものかは俺にはまだよくわからないが、海部に抱く感情は他の人に抱く好意とは明らかに違う。

 幼い日の憧れだろうか。
 円の中心にいた海部と、円からずっと離れたところにいた自分。
 過去のことを考えるとひどく気が滅入る。恭弥君に迷惑を掛けて、誰からも嫌われていた過去。
 中学生になってから綺麗だの可愛いだのと言われることが増えたが、その度に過去人から嫌われていたことを思い出し、自虐的になる。

 いつからか閉じていた目を開けると、海部の白いシャツと、彼の黒い髪の毛があった。こんなに近くにいるのに、くっついているのに、どうして意識は共有できないのだろう。
 彼の考えていることが俺にはわからない。海部だけじゃない。他人の考えていることが俺にはさっぱりわからない。
 ――笑ってくれているけど、本当はどう思ってるんだろう。
 こんな失礼なことを考えることが多い。

「今も、あんの?」

 おずおずと、といったように海部が切り出した。

「今もって?」
「今も襲われたりすんの?」
「あんまりないよ」
「ちょっとはあるのか」
「ちょっとはあるよ」
「俺以外にも?」
「海部は襲ってこないじゃないか」

 俺の言葉に、海部は何も言わなかった。彼の態度に俺は不安を覚えている。海部の考えていることがわからない、という不安と、自分が卑しい人間のように思えて認めたくはないが、彼がもうくっついて来ないのではないか、という不安。

「海部」

 胸が痛かった。下げていた顔を起こし、至近距離にある海部の顔を見上げる。目と目が合った。
 海部は、もしかしたら俺のことを汚いと思ったかもしれない。襲われたってことばを使ったし、俺も否定しなかった。海部にはキスとおしりは守り通してきたことを言っていない。

 この時、俺は自分の欲求に気がついた。
 海部と付き合いたいかはわからない。好きだということは確かだけど、憧れか恋愛かもはっきりしない。
 だけど、手に入れたい。
 やらしいことに対して俺が慣れていると思ったのなら、これを利用しよう。

「俺、十分ひどいことしてんじゃん」

 海部が呟く。キスのことを指しているのだろう。嫌なのなんて、みんなに見られたときだけなのに。

「ねえ、キスして良い?」

 海部の言葉には何も言わずに、顔を寄せながら聞くと、海部が驚きに満ちる。
 返事を聞く前に、海部の唇にキスを落とした。逃げられなかったことにほっとした。

2章1話