ネガティブ
俺なんかゴミ虫同然。
そう思って生きてきて、だけど隠して生きてきた。
「あ、ちょうちょ」
窓際でぼんやりとしていた矢野がふいに指を指した。思わず手を止めて彼の指の先を追うと、どこから入ってきたのか、真っ白な蝶が室内をひらひらと舞っている。
蝶は苦手だ。というより、虫は大嫌いだ。殺虫スプレーを使えばやっつけられるからまあ苦手といってもそこまでではないが、寄って来たらさりげなく逃げる。
「かわいい」
ばれないように立ち上がり自然に蝶の進む方向と反対側に移動していると、鏡がぽつっと呟いた。
驚いて近くの席に座っている鏡を見る。勝手なイメージで、虫は苦手だと思っていた。けど、そうではなかったのか……。こんなことを考えていると鏡と目が合った。そして――
(やっぱやばい)
鏡の大きな黒い瞳が嬉しそうに細められた。他のやつらからはあまり表情が変わらないと評されているが、そんなことはなく細々と彼の表情は変わっている。
大げさに顔を動かすやつらが多いが、俺は鏡の方が好きだ。
いつの間に飛んできたのか、真っ白な蝶が目の前を通過する。だいぶ驚いたが、どうしてかさっきよりもちゃんと見れた。
でも、心臓がどきどきしている。なんだか熱い。
そのせいか、少しだけ綺麗だなんて今までじゃ考えられないことまで思った。
「俺、モンシロチョウは好きなんだ。ほかはあんまり好きじゃないけど」
放課後、寮へと戻る道の途中、思い出したように鏡が言った。
「アゲハ蝶とか、茶色いやつとか、模様の入った奴とか、なんか気持ち悪く感じる」
こんなふうに自らしゃべる鏡を見たらみんな驚くだろう。それほどこいつは他じゃしゃべらない。最近は話しかけられたら少しは会話をするようになったが、出会った頃は全然だった。
「……クソっ」
嫌なことを思い出し、無意識に舌打ちしてしまう。
「海部?」
「悪い。なんか、やなこと思い出した」
「やなこと?」
「小学生の時ちょうちょが顔に付いてよ。気持ち悪さに死ぬかと思った」
思い出したことはこれではなかったが、鏡は信じてくれたようで彼の綺麗な顔がゆがむ。
「それ、最悪」
「俺、虫嫌いだから」
けれど嘘をついたことに対しバツの悪さを感じ、誰にも言ったことのない秘密を打ち明ける。
鏡が驚いたように俺を見上げた。
「海部、虫だめなの?」
「ああ。だいっきらい」
「じゃあ、部屋に出た時どうするの?」
「滅多にでねえ。出ないように万全を期してるし。けど、たまに出たときはすっげー高い殺虫剤で瞬殺する」
「死んだのは掴めるの?」
「……いや、掃除機で吸う」
「え?」
「で、部屋全部掃除する。そうすれば紙パックを取り替えるときもホコリにまみれて見えなくなるだろ。虫」
「……」
ちょっとさらけ出しすぎただろうか。
今まで付き合ってきて思ったことだが、どうやら鏡は俺のことをすごく格好良い人間だと思ってくれているようだ。
実際は弱くてびびりでどうしようもないクズだが、鏡が勘違いしてくれているうちは格好良い海部でいたいと思う。
俺の話を聞いた鏡は何も言わずにうつむいた。何か考えることがあるのだろう。彼はしばしばこうして自分の世界に入る。
その瞬間を見るのが俺は好きだった。
寮の手前で、鏡が足を止める。
「海部!」
そうして俺を見上げて言った。他の奴らならば普通だが、鏡にしたら随分と大きな声で。
「何?」
「虫が出たら呼んで! 何時でも、どこでも、俺必ず駆けつけて殺す!」
周囲にいた生徒たちの視線が鏡に集まる。
「できんの?」
「できる! 絶対逃がさないで殺すから!」
鏡が自分から何かを提案することはまずない。
それでも提案や依頼をするときは覚悟を決めた時。だから緊張し、気合が入っているのだろう。だんだんと声が大きくなっていく。
「そっか。じゃあ、頼むわ」
俺が答えると、険しかった鏡の表情がパア、と明るくなった。
「うん、うん、呼んで!」
俺に負い目がなければ、俺は人目も気にせず今ここで鏡を抱きしめているだろう。それほど可愛く、愛しく、大好きだ。
けど、俺には出来ない。
俺には鏡に好きだと伝える資格が無い。
なんにでも資格はいる。ないならば、親になるのも、友だちになるのも、好きだと伝えるのも資格が必要であれば良いのにと思う。
ずっと親として子を大切に出来ないのであれば親になってはいけない。
一度でも裏切るなら、友だちになってはいけない。
そして――
暗い気持ちに、闇に心が侵される。
俺に、鏡に好きだと伝える資格はない。