早寝記録

告白

 決意の翌朝、海部が部屋を訪ねてきた。なんとなく、と彼は言ったが今日からしばらくお別れなのだ。
 全てを告げたい気持ちを押し込めて、俺は部屋の中に海部を招いた。まだ登校するまでには時間がある。

「朝、食べたの?」

 ネクタイを締めながら尋ねる。質問への答えの前に、曲がってる、と指摘された。
 今度は鏡の前に立ち、まっすぐに直す。
 鏡には、もちろん自分が映っている。白いシャツにネクタイはする人がすれば大人にさえ見えるような格好だが、俺がすると子どもに見える。改めて見る自分は線も細く骨格だって男のものには見えない。よく中性的と言われるが、それは褒め言葉ではなくどっちつかずの中途半端な状態を指すものだと思っている。
 そんな俺に対して鏡の隅に映る海部は完璧だ。男らしいがごつごつしていなくて綺麗だし、華奢でもムキムキでもない。「どっちつかず」ではなく「丁度いい」だ。

「適当にパン焼いて食った。鏡は?」
「トマト」
「は?」

 鏡に映る海部の顔が険しいものへと変わる。

「女子かよ。っつうか、何。ダイエット?」
「だ、ダイエットじゃないよ。今俺、平均体重よりも痩せてるんだ」

 中途半端な俺が今密かに誇っていることだ。あの丸かった俺が、今や平均よりも痩せているのだ! この喜びといったらない。しかも、中学生に上がる頃は恭弥君のいない寂しさでやつれていたが、今は「やつれている」ではなく「やせている」なのだ。この違いは大きい。

「ほんと、すげー変化だもんなあ」

 海部がしみじみとつぶやく。太っている頃の俺を知っているからこその言葉。俺がいじめられていることを知っていたのに助けなかった、と彼は後悔を告白したことがあるが、その言葉は俺を喜ばせるものでしかなかった。俺と全く関わりのなかった海部が俺を助けなかったのはあたり前だし、助ける責任なんてない。だから、数年後こう言ってくれたことが仲良くなれたことの証のような気がして嬉しかった。
 それに、あの頃の俺は確かにいじめられていたが、決してひとりではなかったし、孤独でも寂しくもなかった。普通の友達百人にも千人にも匹敵する特別な友達がいたから。それは、今から思うととても幸福なことだった。

 計画を打ち明ける訳にはいかない。だけど、行く前に少し、話をしたい。

「ねえ、海部」
「なんだよ」

 海部が鞄を探っている。飴しか入ってねえ、というつぶやきが聞こえた。

「大丈夫だよ。俺バッグにパン入ってるし、あとで食べる」
「食欲ねえの?」
「なんかね。すっごい悪い夢みたんだ」

 多分、食欲がない本当の理由はこれからおこす行動に対しての緊張からだが、夢見が最悪だったのは事実だ。みんなに見捨てられて、排水管に吸い込まれる夢を見たのだ。

「夢見悪いと気分悪いもんなあ」

 大変だな、と海部が言った。大変だったと笑い、俺は彼の座っているソファへと腰掛ける。

「海部とか、生徒会のみんな以外と話す時、ちゃんとしゃべれるようになった」
「ん? ああ、そうだな」

 すごい変化だ、と海部が笑う。

「矢野を案内しろって言われたときは、どうしようかと思ったけど」

 矢野が転入してきた時のことを思い出す。振り返れば、恭弥君似の彼が転校してきた時から俺や、俺と海部の関係が変わった。矢野が来て、如月の誘導に乗り衆人環視の中俺と海部はキスをした。それがなければ海部と俺はずっと清い関係のままだっただろう。

「まあ、悪いやつじゃなさそうだったから、良い練習になるんじゃねえかって思った」
「……やっぱ海部はお母さんみたいだ」
「……なんだろう」

 海部がしみじみと呟く。

「やっぱり全然嬉しくねえな」

 優しく言って海部は俺の頬に手を伸ばしてきた。頬に触れる手を自らの手で覆う。俺の方が手が小さいから添える、と言った方が正しいかもしれない。
 海部の親指が頬を撫でる。ゆっくりと、左右に動く度あたたかな何かが俺を包む。ずっとこうしていたい。
 至近距離で目を目を合わせる。これが、すごく仲のいい友達の距離かと問われたら絶対に違うだろう。やたらと甘い雰囲気を俺は気恥ずかしく思いながらも気に入っているが、友達じゃない。
 海部は俺のことをどう思っているんだろう。
 俺と海部の関係はもしかしたらすごく中途半端なものなのかもしれない。俺と同じだ。

 そんなことを考えていると、海部がそっと顔を寄せてきた。それに合わせて目を閉じる。
 触れるだけのキスは気持ちがいい。身体的な気持ちの良さというよりも、心が満たされる。

 顔と一緒に、頬に添えられた手が離れていくのを名残惜しく見送る。

「好きだなあ」

 気が付いたら音になっていた。無意識の自らの発言に驚き目を瞠ると、いつもと違うニュアンスを感じ取ったのか海部も俺と同じように目を瞬かせた。
 ごまかせるような言い方ではなかった。恋焦がれている人に言うような、甘いが切羽詰まったもの。

 慌てて立ち上がる。

「鏡!」

 まだだめなのだ。なんにもケジメをつけていないからここで何かを訊かれるわけにはいかない。
 自室から勢い良く飛び出してすぐのところにある階段でひとつ下の階へと下りる。もしも海部が追ってきてくれたら、俺の部屋があるフロアだとすぐに追いつかれるから。
 廊下にまばらにいる生徒たちが急に現れ走り抜ける俺をなんだなんだと一斉に見てくるのもかまわずにとにかく走った。走って、それで言い訳を考える。
 言っちゃえばいいじゃん、とふと思った。
 恭弥君に会って謝って、許してもらってももらえなくても再びここに帰ってきたらどうせ俺は告げるのだ。

『レイちゃんさ、目逸らしちゃだめだよ』

 幼き日の恭弥君が浮かぶ。
 彼は俺に強くならないとと言った。中学生になったらおれはもういないんだから、と。
 一緒にいたいからいるんだといつも言ってくれていた恭弥君は離れることがわかってから俺を励まし、強くしようとしてくれた。
 恭弥君が俺と本当に離れたくないと思ってくれていたのなら、俺は彼に対して残酷だった。あれだけ嫌悪していたいじめっこと同類だ。

 そんな俺の告白が成功するにせよ失敗するにせよ、俺は恭弥君に謝らなければいけない。
 じゃないと俺は前へ進めない。

 まずは外に出よう。人が滅多に来ない絶好の思考場所があるのだ。
 前方にエレベーターが迫るが、悠長に文明の利器にすがっている場合ではない!
 階段だ! 階段で駆け下りる!

 勢いがあった。
 痩せたからだろうか。小回りもきくようになった。だけど、俺はどうやら自分の体を上手に把握できていなかったらしく、せいぜい二段飛ばしで駆け下りようとしたのに、俺の足はその遥か先にあった。

 誰かが短く叫んだ。
 俺は、すこしばかり、宙を舞った。