回転
恐怖、痛み、回転する視界。
痛いだろうと予想していたが、よくわからなかった。遠くの、夢の様な体験だった。
意図したタイミングではなかったが、俺はそれでも当初の目的通り島から出ることに成功した。
街中にある大学病院に検査をするために行き、電車で一時間ほどのところに住んでいる姉と合流、付き添ってくれた教師と別れた。姉が一度実家に連れて行くと教師に話をしたからだ。
階段から転げ落ちた時に全身を打ったが、ひどく痛むのは肩で足はそれほど痛まない。見るに耐えない青あざはできるだろうけれど、歩けないほどには多分痛まないだろう。
とにかく、俺は今週いっぱいの自由を手にしたのだ。あとは、姉を言いくるめればいいだけ。実家には帰りたくないが、恭弥君に会うためなら帰るのも仕方がない。ただ、俺の気持ちがしっかりしている内に恭弥くんに会いたかった。
「車で来ればよかったね」
電車に揺られながら姉が言った。姉は綺麗な人で、車内にいる男たちの視線がちらちらと姉に向く。
「いつも運転してるの?」
「してるよ。私、田舎に住んでるから。車が便利なんだよ」
姉が穏やかに答えてくれる。彼女は昔から穏やかな人だったが、俺はいつも姉に哀れな目を向けられていたと思っている。姉も兄も優秀で、口では何も言わないが俺が失敗したり親に怒られたりする度に呆れた目をしていた。被害妄想かもしれないが、そう思えてならないのだ。そして、そう思い込んでしまった俺の思考を今更変えるのは簡単な事じゃなく、今も少し彼女の目を見るのが怖い。
「電車って揺れるし、ほんと、車で来れば良かった」
姉が呟く。向けられる視線が嫌だからというわけではなさそうだ。俺を見る彼女の瞳に浮かぶ感情が、階段から無様に落ちた俺への呆れではないことに気がつく。小学生の時に恭弥君がくれ、中等部の時には慶也と白石が、そして高等部になってからは海部がよく俺にくれるものだ。姉の目には心配の色が浮かんでいた。
「痛くないし、大丈夫」
小さく言うと、姉が微笑み、人前だというのに包帯がまかれた俺の手を優しく撫でた。いまもじんじんと痛んでいる手が温かくなる。
「我慢できるくらいなんだね」
「我慢できるよ」
「我慢強いもんね」
「それはないよ」
「だって、ダイエットできたじゃない」
いたずらっぽく姉が笑い、手を引っ込めた。
「それは……」
そういえば姉は知っているのだろうか。俺が恭弥君にどこまでも頼りきっていたこと。もちろん恭弥君という友達がいたことは知っているだろうけれど、家にも連れて行けなかったし、恭弥君の話を家ですることはほとんどなかった。
(俺、恭弥君がいなかったらひとりだったんだ……)
恭弥君の話だけじゃない。人を怖がって、俺は自ら人と話をすることはなかった。それが家族でも同じだ。必要最低限の会話しかしていなかったように思う。
俺が小学校を卒業してひとり誰もしらないところでなんとかやって行けたのは恭弥君のおかげだ。恭弥君がいなければ俺は慶也とも白石とも友達にはなれなかっただろう。ふたりが近づいて来てくれても、俺は何も話せずに俯いていただろうから。
「恭弥君のおかげだよ」
「……木戸君だね」
「うん。知ってる?」
「知ってるよ。令と仲よかったし、恭弥君のお兄ちゃんからいつも聞いてた」
「恭弥君のお兄ちゃん?」
「同じ歳なの。令が木戸君の家で楽しそうに遊んでた、とか、部屋から泣き声聞こえてた、とか聞けばいつも教えてくれたよ」
いつも、という言葉がなぜか気になった。俺のことを気にかけてくれていたのか、それとも――
今の俺なら聞くことができた。昔は人に否定されたり話し掛けて眉を顰められるのが怖くて仕方なかったけれど、今は前よりもそれに耐えられるだろう。俺はもう冷たい人ばかりではないことを知っているから。もちろん人に冷たくされるのは嫌だけど、もし冷たくされても俺のことを好きだと言ってくれる人たちのことを思えば怖くない。
あの頃の俺は恭弥君に見捨てられたくないと思うばかりに恭弥君のことを何も見ていなかった。もっといろんなことに気づけていたらおそらく何かが変わっていただろう。
「……俺、恭弥君に会いに来たんだ」
「え?」
姉が驚いて俺を見たのがわかったが、俺は膝においた自分の手から目を離せなかった。
「怪我でもしないと、学校から出られないから」
「令」
「俺、どうしても恭弥君に会わなきゃいけないんだ。お姉ちゃん、明後日には必ず戻るから、お願い、見逃して」
縋るように姉を見る。彼女の目は未だに驚いたように見開かれているが、薄茶色の瞳はどこまでも澄んでいる。視界の端に見える車窓の向こうでは、景色が一瞬で過ぎ去っており、ガラスの向こうで人があたり前のように生活しているなど思えない。
姉は、しばらく黙って俺を見つめていた。
『レイちゃん、目を逸らしちゃダメだよ』
また、恭弥君の声が蘇る。
そう、逸らしたら負けるのだ。意気地なしの自分の心に負けてしまう。
なんでも、勝ち続けることは出来ない。だけど、負けてしまうにせよ、諦めないことは出来る。今の俺との勝負は、諦めなければ勝てるものだ。
姉の後ろに見える窓の外の景色が、だんだんと姿を現す。列車が走る速度が落ち、止まろうとしていた。
「ここで、降りるの」
姉が言う。
そして、彼女の口元に笑みが浮かんだ。
「前に、恭弥君の行った学校を木戸君から聞いたの。ここで降りて、稲穂町のバス停に行きなさい。お金、持ってる?」
「う、うん」
車内アナウンスが流れ、列車が完全に止まる。誰も席を立つ気配がない。
「ほら、急いで」
「うん」
俺は急いで席を立った。後ろから姉の声が掛かる。
「大丈夫よ。こんな良いタイミングで話を切り出すなんて、運命だもん」
きっとうまくいく、という姉の声に振り向き、感謝の思いを込めて笑みを浮かべる。
こんな気持で家族に笑顔を向けたのは、もう思い出せないほど昔のことだった。