トマトスープのいい香り
再会の十分後、俺と恭弥君は彼の部屋の共同スペースにいた。俺の腹が鳴ったのだ。
トマトスープのいい匂いが鼻孔をくすぐる。怪我のせいか緊張か、腹なんて空いてなかったはずなのに、きゅる、と男らしくない音で腹が泣く。それが恭弥君にも聞こえたのか、向かいで恭弥君が小さく笑った。その顔が漫画にでも出てくる敵役みたいでなんか格好良い。性格は男前だったけど、あの可愛らしかった恭弥君の見た目をまさか格好良いと思う日が来るとは思わず、ある種の感慨が生まれる。
緊張しているはずなのに、随分余裕だ。
俺はもしかしたら緊張なんてもうしていないのかもしれない。
だけど恭弥君はどうだろう。いきなり、良い別れ方をしなかった昔の友達が押しかけてきて、なんて思っているのだろうか。人の心は見えないから、どんなにすごいと言われる心理学者でさえも、ほんとのほんとに心がわかることは無いと思う。
それでも、俺は心のどこかで安心している。恭弥君は怒っていないと思っている。
恭弥君の顔をじっと見るが、やはり彼が何を考えているのかわからなかった。恭弥君は昔と変わらず柔らかく笑ってるから。
それは、俺にだけくれる表情だった。俺はすぐびびるから、恭弥君はやさしくしなきゃと心がけていたそうだ。いつか言われたことがある。
「やっぱ、レイちゃんの前だと俺、なんか違う」
思い出す前に、恭弥君が口を開く。そして、ちらりと壁に掛けられている時計を見て、立ち上がりキッチンへと向かった。
「違う?」
「俺、この歳になってもまだ素直じゃねえ、生意気って言われてるんだよ」
「そうなの?」
「愛想ねえし、よく、不良に不良と間違えられたり、不良の緊張ほぐそうと思ってにこっとすると逆ギレされる」
「信じられない」
というか、不良の緊張をほぐそうとする場面も浮かばない。どういう状況なのだろうか。
「俺、昔っから変わってねえの」
キッチンに立った恭弥君が火にかけた鍋の蓋を外した。トマトスープのいい匂いがさらに鮮明に感じられ、腹の虫が騒ぐ。ニオイだけで言うと、かなりおしゃれそうな料理だ。
うまくできた、と恭弥くんが呟く。
「見た目は、格好良くなった」
口に出してから、恥ずかしいことを言ってしまったと思ったが、恭弥君は振り向いて嬉しそうにありがとうと言ってくれた。
「んなこと言ってくれるやつ、レイちゃんしかいない。俺、ロリからちゃんと成長したでしょ? まあ、格好良くはねえけど……つうか、自分でロリって言ってすっげー引いた、俺、キモい」
「き、キモくないよ、恭弥君可愛かったもん。嫁にほしかった」
クラスの女の子よりずっとずっと可愛かった恭弥くんを思い出して言う。恭弥君が女の子だったら、俺は結婚したかった! そのためならきっと死ぬ気でダイエットして、格好良くなろうと努力しただろう。残念ながら、恭弥君は男の子だったけど。
「ピンクとかばっか着て、まじで恥ずかしい過去なんだけど」
クスクスと笑いながら、ミトンを手に装着した恭弥くんがいい匂いをさせた鍋を運んでくる。
「美味しそう……」
美しい赤いスープに浮かぶ色とりどりの野菜、見るだけで柔らかいとわかる鶏肉。その傍に置かれている食べやすくカットされたフランスパン……。
Tシャツにジャージを履いた少年から出された料理はとは思えないおしゃれっぷりだ。
「おいしいよ、多分。ほら、食べて」
照れ隠しなのか、恭弥くんが控えめに笑い、食器にスープをよそってくれる。嬉しい。湯気の向こうにはきっと楽園がある。口の中にユートピアが建設される予感を覚えながら、俺はここに何をしに来たのだろうとふと我に返る。
「いただきます」
しかし勧められた料理は謹んで受けなければならない。俺の前に用意されたスプーンを持ち、楽園に侵入、程よく溶けた芋を掬い、口の中へ!
(幸せ……!)
確かに、学食の料理は美味しい。隔絶された世界だから生徒の胃袋を掴まねばと、食にこだわっているらしいからどの料理も水準以上だ。
でも、
でも!
鶏肉を口に運ぶ。
「これを、最後の晩餐にしたい……」
陶然とつぶやくと、恭弥くんが吹き出した。
「褒めすぎ」
「本当だよ、神……恭弥君、神様だ」
「そこまで!? 木戸教入っちゃう?」
恭弥くんがケラケラと笑う。恭弥君は昔から俺がどんなに突拍子もない事を言っても、ちゃんと聞いて返してくれた。レイちゃん面白いと言って、全然楽しくない俺の話を面白そうに聞いてくれた。噛んでも、聞き取れないようなことでも焦らさずに、からかわずに聞いてくれた。だからか、恭弥君と話すときに言葉に詰まるとか、どもってしまうことはあまりなかった気がする。
「俺、ずっと木戸教に入ってる」
「あ、そう?」
「俺、何しに来たかわかんないね。ごめんね。実は、はりきって飛び出して来たはいいけど、何をするかとか、自分でもわかって無い」
「わかってねーの?」
俺は恭弥君に謝りに来た。海部に告白するために。
だけど、その俺の考えがとてつもなく汚いものだと今気付いた。恭弥君に謝るのは自分のためだと気付いたのだ。海部に告白するために恭弥君に許してもらおうなんて、恭弥君に対して失礼この上ない。
「最近になって、小学生の時のことをよく思い出すようになったんだ」
「うん」
突然語りだした俺に、恭弥君は相槌を打ってくれる。
「一緒にいてって頼んでたくせに、一緒にいると恭弥君に友達ができないから離れるって言ったり、俺、恭弥君のこと考えてたつもりだったけど、自分のことしか考えてなかった」
「そんなこと……。いや、仕方ねえよ」
わずかに恭弥くんが口ごもる。彼は、何かを考えたようだったが、何も言わず、パンを手に取った。
「謝るのだって自分勝手なことだと思うんだけど。……ケンカじゃないし、どうして良いかわかんない」
「じゃあ、俺と離れて後悔してますって言ってよ」
「え?」
パンをかじりながら、恭弥君がどこか挑戦的に言った。
「別に、俺の気持ちなんて考えなくていいよ。きっかけは知らねえけど、後悔したから来たんでしょ?」
「うん」
「だったら、その後悔教えて。そしたら俺、満足すると思う」
にやりと恭弥君が笑う。不覚にも、悪役っぽさにときめいてしまった。
「俺には謝られる資格なんて無い。けど、レイちゃんが俺と一緒にいたかったって謝りに来てくれたのは、嬉しい。……それで、気にしなくていいよ。これからまた仲良くしようって言うのが良いとは思うけど、それもなんか白々しくて嫌だ」
「うん」
恭弥君が心の中を見せてくれる。人は嘘を吐ける生き物で、嘘を見抜く手段なんて誰も持ち合わせていないけど、それでも、今恭弥君は俺に正直に語りかけてくれているという確信がある。
女々しいことばかりを考え、口に出していたけど、俺は恭弥君といた6年間でどうやら彼への絶対的な信頼を手に入れたらしい。それが、誇らしかった。
後悔を、自分の気持ち全てをぶつけるために、俺は口を開いた。