ある夜の話
俺よりも悪いやつは腐るほどいる。
事あるごとに思い浮かべてきた言葉だ。俺はものを盗んだことがないし、人を殴ったことも殺したこともない。虫は殺したことがあるけれど、動物をいじめたことはない。警察に捕まるようなことだってしたことないし、いじめに加担したこともないとはっきり言える。
俺よりも悪いやつは腐るほどいる。
(くそ……)
眠れずに心の中で悪態をつく。向かいのベッドを見てみると、暗くても城宮がぐっすりと眠っているのがわかった。そっとベッドから降りて寝室から出る。水でも飲んですっきりしよう。そう思い、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に流し込んだ。
すぐに寝室には戻らずに、電気もつけずリビングのソファに座る。戻ったってどうせ眠れない。その理由はわかっている。夕方、母親から久しぶりに電話が来たのだ。優しく「大丈夫?」と言われてしまった。友達もいるし、結構楽しくやってるよ、と俺は答えたが、これは本当のこと。城宮とはまだ付き合いが浅いが、花札をきっかけとして仲良くなったし、最近は楽しいと感じてしまうことも増えた。城宮と同室になり、彼の綺麗さに触れ、汚い自分まで綺麗になっているのではないかと錯覚してしまうほどだった。
それを望んでいた。望んでいたはずなのに、心の棘がひとつずつなくなるにつれて眠れない日が増えるようになった。
目を閉じれば、とある幼い顔がまぶたの裏にこびりついて離れないから。
「蓮……」
数年ぶりに口から出たのは双子の兄の名前。もう向こうは兄弟だと思っていないだろうけれど。俺が捨てたのだ。小学生の頃親が離婚することになり、俺たち双子は父親に引き取られることになった。母親が、絶対に俺たちのことを引き取らないと言って頑なだったからだ。その時には父はすでに別の場所に家族を持っていて、俺たち二人がそこに入れてもらうことになっていた。
朝からうだるように暑い日だった。早朝俺がトイレに起きると、リビングでぼうっとしている母親がいた。ほとんど会話らしい会話をしなくなってしばらく経っていたが、俺は母の足元にあるでかいキャリーバッグに気づき、思わずリビングに入っていってしまったのだ。母は驚いたように俺を見た。そして、一瞬悲しげな表情をした。
「……一緒に来る? あんた一人なら連れていけるよ」
悪魔の問いかけだった。俺は、反射的に首を縦に振っていた。蓮がひとりになってどんな生活を送っているのかは敢えて考えないように生きてきた。周りからずっと変わっていると言われて来た兄。不気味だと親や親戚、学校のやつらからも距離を置かれていた。だけど俺は好きだった。他のやつらからは出ないような発想も面白かったし、何より優しかったから。そんな兄を俺は置いていったのだ。
「あー、最悪」
俺を引き取った母は優しかった。一生懸命働いて、女手一つで俺を育ててくれた。家計は苦しいのに一年に一回は必ず仕事の休みを取って旅行に連れて行ってくれたし、俺はお母さんに引き取られて幸せだった。それなのに、幸せを感じれば感じるほど兄はどうしているだろうという考えに支配され、自分勝手にも母が意地悪だったら良いのに、とさえ思うようになった。だから全寮制の学校に来たわけだけど――
俺はまた幸せになりつつある。蓮はどうしているのだろう。一度父の「ほんとの」家族らに会ったが、俺たちのことをゴミを見るような目で見ていたのを覚えている。あんな他人ばかりの家で幸せになるはずはない。
(二人だったら、きっと蓮も……)
残り僅かな水を飲み干してペットボトルをゴミ箱に向かって投げた。ペットボトルが無様にも壁にあたり音が出た時にはもう遅く、拾いに行く間もなく寝室から眠そうな城宮が出てきてしまった。
「ごめん、起こしたね」
「何時だよ……」
城宮がさっきの俺と同じ道筋で冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってこっちにやってきた。
「2時だね」
「ずっと起きてたのかよ」
「眠れなくて」
「吉原君って不眠症? なんかあんまり寝てねえ印象」
「夏ころからねー。なんか、俺幸せだと寝れないタイプなんだよ。うきうきしちゃって」
「全然うきうきしてるようには見えねー」
そう? と自然に言ったはずだったのに、普段より声が暗い気がして焦った。でも大丈夫だ、眠れていないのだから、元気だったら逆に怪しい。城宮が水を飲みながら俺をちらりと見たのを感じる。
電気は付いていない。カーテンをしているから、外からの明かりもない。いつもと同じ場所で城宮と同じように並んで座っているけれど、なんとなく普段とは違う感じがして、気がついたら意図せぬ言葉を発していた。
「俺って良いやつじゃないよね」
水を飲んでいる城宮の喉が鳴る。
「知らねえけど、悪くはねーよ」
「性格悪いでしょ」
「別に、吉原くんが言うほど悪くない」
「……良いやつぶるのが得意なのかも」
望んだ答えをもらえなかった。前は性格良くないけど嫌いじゃないと言ってくれたから、まさか否定されるなんて思わなかった。城宮は随分とリラックスした様子で喉を鳴らして水を飲んでいる。
「悪く思われなきゃだめな理由でもあんの? 外面よくしてるから、人に好かれたいのかと思ってたんだけど」
水を飲む間に尋ねられる。
「性格悪いのに良い人ぶるとか、最低だから」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
「何。吉原くんは最低なやつになりたいわけ?」
「違う。最低なんだよ、俺は」
「どこが?」
「どこがって……」
「……俺がボコられてた時頼んでもいねえのに手当してくれてたし、やばくなったら風紀呼んでくれた。俺が転校生に付きまとわれて困ってた時だって追い払ってくれたじゃん。少なくとも俺にとっては良いやつなんだけど」
何も言い返せなかった。城宮がくれた言葉を否定したくないずるい自分のせいだ。
兄を置いていった俺は最低だ。幸せになる権利なんて持っていない。幸せになるには権利がいる。人を傷つけたことがないやつだけが幸せになって良いのだ。俺は蓮を不幸にしたから、幸せになっちゃいけない。
そう思うのに、城宮が俺を受け入れてくれると考える前に嬉しさがやってくる。
荷物なんてなかった。母に一緒に来るかと問われ頷いた5分後には、俺は母と一緒に彼女の車に乗っていた。どこかふわふわした感じだった。まるで、自分の中から何か大切なものが出ていってしまったような、そんな感覚。きっとその糸を辿っていくと5分前まで俺が寝ていた「俺たちの」寝室にたどり着く。
「行くよ」
運転席の母が言う。俺は言葉なくうなずき、目を閉じた。だからなのか、小さな足音が聞こえたのだ。はっとして窓から家の方を向くと、ひどく傷ついた顔の蓮がいた。何も言えなかった。何も言えないまま、母が運転する車は走り出してしまった。走り出す直前の蓮の顔は今でもはっきりと思い出せる。泣くでもなく怒るでもなく、一瞬で彼の顔から表情が消えたのだ。『不気味な子だね』といつも蓮は言われていた。無表情で、無口で、かと思えばいきなり消えて道路の一点をただ見つめていたりする。近づけば蓮が何を見ていたのかわかるのに、彼に近づいてくれる人はただの一人もいなかった。不気味だ、変な子、そう言われ続けたら人はどうなるのだろう。
「……絶対にしちゃいけないことをしたんだ。罪は償わなきゃいけないよね」
「罪?」
「本当は、人に嫌われて、ひとりぼっちになるべきなんだよ。だけど俺は最低なやつだから、ひとりにならないように取り繕ってさ。ほら、今だってこんなこと言われると城宮は俺のことほっとけない。全部計算だよ、多分」
「多分ってなんだよ」
城宮が笑う。優しい笑顔だと感じた。夜は昼と同じ数だけやってくるのに、暗闇の中はなんだか非現実のような気がして、俺は饒舌になっていた。明るいうちは絶対に話さないようなことを城宮に話してしまっている。
「俺、実は双子なんだ」
「は……え? そうなの?」
「うん。片割れをね、自分の意志で置き去りにして、俺は自分だけ幸せになったんだよ」
「全然幸せそうに見えねえけど」
無理やり笑顔を作り、城宮に向き直る。笑うのは得意だ。表情なんて、いくらでも思い通りに作ることができる。本当の顔がわからなくなるほどに。
「幸せだよ。不幸になりたかったのに、俺は城宮といる。金髪になってそれまで仲良くしていた人たちが離れていった時に、そのまま一人になればよかったんだ。転校生があんたにつきまとってた時に、何もしなければよかったんだ。でも、一緒にいると楽しいから、俺は頑張って城宮と一緒にいれる道を探してる。で、今ここでこうしてあんたは隣に座って俺のこと励ましてる。これは、幸せなことだよね」
「泣きそうな顔で言われても……」
俺は笑っているはずなのに城宮は変なことを言って、おずおずと抱きしめてきた。あまりのぎこちなさにそんな場合じゃないのに笑いがこみ上げる。その後で、城宮のあたたかさが身にしみこんできて、今度は本当に泣きそうになった。
朝が来たら今夜のこの会話も行為もなかったことになるだろう。
非現実的な夜だからこそ、俺は話したし城宮は抱きしめてくれたのだから。